ユダヤ人と私 その40 「スープは底のほうから、、」

強制収容所生活のつかの間の楽しみは誠に貧しいながら,パンと水のようなスープにありつくときだったようです。スープの鍋底には僅かなジャガイモや豆が残っています。時には、ソーセージの切れ端もあったようです。作業現場では親衛隊の下部組織であったカポー(kapo)と呼ばれるユダヤ人の監督が囚人の指揮をとっていました。同じくユダヤ人の非収容者である厨房係がパンきれを渡し、スープを鍋からすくっていたのです。その収容者は「底のほうからお願いします」と懇願したそうです。数粒の豆が皿に入るからです。

Majdenak

フランクルは前回の外科医との笑いの他に、仲間達と他愛のない滑稽な未来図を描いてみせています。誰しも解放されて、ふるさとに残した家族との再会を想い浮かべるという設定です。ふるさとに帰り、あるとき友人宅での夕食に招かれたとします。スープが給仕されるとき、ついうっかりその家の奥さんに作業現場でカポーに言うように「底のほうからお願いします」といってしまうんじゃないかって、、、」

「こうしたユーモアへの意思、ものごとをなんとか洒落のめそうとする試みは、いわばまやかしだ。だとしても、それは生きるためのまやかしだ」というようにフランクルは自虐的らしくいいます。収容所生活は極端なことばかりなので、苦しみの大小は問題ではないということを踏まえたとすると、生きるためにはこのような姿勢もあり得るのだ、とフランクは言います。

「こんな悲惨な状況の中では、誰もが人間性を失ってもおかしくはない。だが極限状態でも人間性を失わなかった者がいた。囚人たちは、時には演芸会を催して音楽を楽しみ、美しい夕焼けに心を奪われた。」

フランクルは、そうした姿を見て、人間には「創造する喜び」と「美や真理、愛などを体験する喜び」があると考えるのです。そして深刻な時ほど笑いが必要だというのです。ユーモアの題材を探し出すことで、現状打破の突破口があるとも言うのです。フランクルは、作曲家マーラー(Gustav Mahler)に心酔していたようです。

「ユーモアは人間だけに与えられた、神的といってもいいほどの崇高な能力である。」