間宮林蔵の北方探査は、今に至る北方領土問題に関わっていると考えられます。それを今回取り上げます。前回記した日露和親条約締結には、林蔵の千島や樺太の調査が役立ったといわれます。林蔵は1806年より択捉島で地図を作成する仕事を始めます。そこには「国防」 というテーマが林蔵にはあったと考えられます。外国との交渉には、島々を正確に地図に表しておかなければならないという危機感があったのです。
赤羽栄一の「間宮林蔵 北方地理学の建設者」という本によると、1807年、林蔵が択捉島にいたとき、ロシア人の一隊が樺太から択捉島の紗那という村を急襲したとあります。北方の国防ということについて林蔵は大きな緊張を強いられたはずです。そして島の特徴や地図の作成が急務であると考えます。こうして林蔵は忍者や間諜のように島々の探検を続けます。
間宮海峡の発見から林蔵は、樺太北部に居住していた少数民族のギリヤーク人 (Gilyak)やオロッコ人 (Orokko) から中国大陸の黒竜江 (アムール川)下流地域に清国の会所が存在するという情報を得ます。さらにロシア探検隊の動向を調べるのです。その記録を 「東韃地方紀行」 として幕府に提出します。なおギリヤーク人はニヴフ (Nivkh)ともいわれニヴフ語を使っていました。やがて黒竜江付近で清と南下するロシア帝国との間の紛争が黒竜江を境に起こります。これが1995年まで続いた黒竜江、およびその支流の中にある多くの島や中州の領有権を巡る中ソ国境紛争です。
さて、林蔵はシーボルトが江戸に来たとき最上徳内に紹介されて会っています。この時シーボルトは、林蔵に樺太踏査時の情報提供を依頼しました。その後も手紙によっても林蔵に情報提供を願っています。樺太や千島、黒竜江付近の探査から情報の重要性を林蔵は理解していたはずです。シーボルトの行動に対し林蔵は慎重だったと推察されます。二人とも政府と幕府を代表する間諜、スパイのような役割を果たしていたのです。小谷野敦の「間宮林蔵 隠密説の虚実」という本にこの二人の駆け引きが書かれています。
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