今も昔も、日本人論とか日本文化ということが内外の識者によって語られています。アメリカで最初に日本文化を論じた人にルース・ベネディクト(Ruth Benedict)がいます。彼女の文化観を考えることにします。
ベネディクトは、共同体それぞれ文化に基準があり、他の価値や伝統という尺度からは文化の意味を理解することが困難だと主張します。ベネディクトの文化のとらえ方は、「日本人」とか「日本文化」でくくられる狭い意味の文化論とも違うようで、生活や環境全体を意識する見方のようです。彼女の文化観は、文化というものは相対的なもので、共同体に独自の規範があり、それを理解していくと文化の比較は生産的でないと主張します。つまり共同体の文化は、意味や価値を有しておりそれを標準化するような性質のものでないという立場なのです。
ベネディクトは日本で研究したことはないのですが、戦時中日系アメリカ人や日本人捕虜との接触から日本文化を調べ、「菊と刀」(The Chrysanthemum and the Sword: Patterns of Japanese Culture)という著作をあらわします。そして日本人の心性とか人間関係の基本が「恥の文化」(Shame Culture)にあるという仮説をたてるのです。
日本人捕虜との遭遇から一つのエピソードがあります。戦時下ではアメリカの捕虜は尋問に際して、敵方の軍事情報は決して明かさず、故郷や家族のことを語るの対して、日本人捕虜は軍事作戦に関することは白状しても家族のことは決して語らなかったいうのです。家族に捕虜になったことを知られたくなかったといいます。ベネディクトはそうした精神を「恥の文化」と呼んだわけです。「罪の文化」 (Sin Culture)というキリスト教のとらえ方と対峙させたのです。「罪」というのは内に感じて外に向かい、恥というのは外に感じて内に向かうと一般にいわれます。
日本人の人間関係を「他人依存的自分」、あるいは「受身的愛情希求」としてとらえるのが精神科医師の土居健郎です。その著作「甘えの構造」 (英訳:The Anatomy of Dependence)の中で、日本人は周囲の人に好意を持ってもらいたいとか、他者に対して「好意を持って優しくして欲しい」という他者依存があると主張します。内と外という関係に登場するのが「遠慮する」という考え方です。遠慮がない身内は文字通り内であるが、遠慮のある義理の関係は外であると規定します。「遠慮」とは「美徳」だというのです。人間関係を円滑にする大事な手段と考えます。内的な良心を意識する「罪の文化」とか「近代的自我の欠如」の態様が「恥の文化」であるととらえるベネディクトの主張に対して、「そうではない、甘えという美徳が行動の規範なのだ」というのが土居の文化観です。
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