この民謡が生まれるロシアの状況です。ロマノフ朝 (Romanov)のピョートルI世 (Pyotr I ) は、ツァーリ (Tsar) という「祖国の父」とか「大帝」という称号を与えられています。この帝政ロシアは、農業改革の失敗とか相次ぐ敗戦で国民は貧窮し、農民らは人頭税の財源として、世襲的に土地に束縛されていきます。しかし、労働力が兵役に徴集され、農業生産が低下して国全体が食糧難に見舞われます。
王朝の圧政に抗いヴォルガ川 (Volga)を越え、あるいはまたウラル山脈 (Ural Mountains)、さらにはシベリア(Siberia)までおよぶ農民の「大量逃亡」が各地で起こります。そのような状況で、ドン川 (Donu)のコサック (Cossack) の首領といわれたステンカ・ラージン (Stenka Razin) は農民を組織した反政府の武装蜂起を公然と開始していきます。
時代は経て、1917年の「二月革命」と「十月革命」によって退位を余儀なくされ、やがて処刑されたニコライII世 (Nicholai Romanov)が最後のツァーリとなります。
「ヴォルガの舟歌」は、本来は農民たちの歌です。「綱を引け」とか「川岸に沿って歩こう」、「白樺を倒そう、うっそうと茂ったやつを」といった言葉が出てきます。当時、ヴォルガ川沿岸では、物資や人の輸送を担う川船の接岸を補助するための舟曳き人夫たちが多数働いており、その多くは貧農小作人でした。こうした下層民たちが働きながら唄う労働歌がこの歌です。ヴォルガ川を仕事と生活を支える「母なる河」として称えていたようです。
「ヴォルガの舟歌」は20世紀前半期の偉大なバス歌手 (Bass)でありオペラ歌手のフョードル・シャリアピン (Fyodor Chaliapin) が愛唱しました。その声域は力強く堂々としています。バス歌手の登竜門として歌われたのが「ヴォルガの舟歌」ともいわれます。その後、赤軍合唱団である「アレクサンドロフ・アンサンブル」が行進曲風の力強い編曲として、広く演奏されるようになります。
「ヴォルガの舟歌」
えーこら! えーこら!
もひとつ えーこら!
えーこら! えーこら!
もひとつ えーこら!
それ曳け 舟を
それ巻け 綱を
アィダダアィダ アィダダアィダ
樺の木に 巻いた!
既に述べた「ステンカ・ラージン」という民謡にも「久遠にとどろくヴォルガの流れ、生みの母なるヴォルガよ!」という歌詞があります。ロシア人にとって河は特別な想いがあるようです。
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