ウィスコンシンで会った人々 その97 長屋噺 「粗忽長屋」

八公、熊公が登場する噺である。八五郎はそそっかしく無精で、熊五郎は能天気で率爾という具合。二人とも長屋の粗忽さではひけをとらない。八五郎の方は信心はまめで、毎朝浅草の観音様にお参りに行く。

観音堂の道端に人だかりができている。聞けば昨晩行き倒れが見つかったとか。八五郎は群衆の股ぐらをかきわけていくと、役人たちが通行人に死体を見せて知り合いを探している。友達も親戚もいないようだ。行き倒れは長屋に住む店子の熊五郎だと判明するが誰も引き取ろうとしない。そこに長屋の大家もいるのだが大のしみったれ。引き取りや葬式費用をだしたがらない。

八五郎は死人の顔を見るなり、「こいつは同じ長屋の熊五郎だ。そういえば今朝こいつは体の具合が悪いと言っていた」と言い出す。役人たちは「この行き倒れは今朝会ったというお前の友達とは別人だ。死んだのは昨晩だから、」と言うが、八五郎は聞く耳を持たず、「本人を呼んでくる。これは当人の熊五郎だ。」と言ってその場を立ち去る。

急いで長屋に戻った八五郎は、熊五郎をつかまえる。
八五郎 「浅草寺の近くでお前が死んでいたよ」
 熊五郎 「人違いだ。俺はこうして生きている」
 八五郎 「お前は粗忽者だから、自分が死んだことにも気が付かないんだ」

熊五郎は自分が本当に死んだのだと納得してしまう。そして自分の死体を引き取るために八五郎に付き添われて浅草観音へ向かう。途中、死骸を引き取るのは気持ちが悪いとか怖いといいだす。

浅草観音に着いた熊五郎は、死体の顔を改めて「これは間違いなく俺だ」と言う。役人は呆れて「この死体がお前のわけがない」と言うが、熊五郎も八五郎も納得しない。二人が「熊五郎の死体」を抱き起こして運び去ろうとするので、役人たちが止めに入り、押し問答になる。

 熊五郎 「どうもおかしくなった。抱かれているのは確かに俺だが、、、
 熊五郎 「抱いている俺は一体誰だろう?」

死人と本人が会話するという奇想天外な発想だが、これが落語の荒唐無稽さである。笑いは非日常性にあると思われる。

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