江戸時代、名工とか名匠と云われる人々があちこちに大勢いたといわれる。経師職人、大工、絵師,木彫り師などである。経師屋だが、城や大名の屋敷が書画の幅や屏風 、ふすまなどを表装する職人である。表具師ともいわれた。今も東京表具経師内装文化協会というのもある。文字通り表具・経師・内装インテリアという3つの大きな業種部門における人材の育成を大きな目的としている。江戸時代の「匠」の技能を今に伝え普及しようとしている。
古典落語に「浜野矩随」(はまののりゆき)という演目がある。江戸は寛政年間、浜野矩康という腰元彫りの名人がいた。その作を求めて浜野家の前に道具屋が列をなして買い競った。その名人が亡くなって女房と一人息子の矩随が残された。しかし、息子の代になって列がぱたり途絶えた。それは矩随の作が誠に未熟であったからだ。それでも商人の若狭屋は先代のよしみで、どんなものでも1分で買い上げた。
今朝も矩随が若駒を彫って持ち込んできた。眠気のために足1本を彫り落としてしまったという。若狭屋は呆れて言う。「小僧達はこれを見て笑っている。下手な作品を作るくらいなら死んだ方がイイ。これからは縁を切るから5両の金を渡す。今後はここの敷居を二度とまたぐではない。死ぬなら吾妻橋から身を投げよ。」
矩随は家に帰り伊勢詣りに行くからと嘘をついたが、母はお見通しで、若狭屋の一件を聞き出した。母親は「死にたければ死んでも良いが、最期に私に形見を彫って欲しい」と観音様を所望した。矩随は井戸の水を浴び、仕事場に入った。隣では母親が神頼みの念仏を唱えていた。4日目の朝、出来た観音を母親に渡した。感心して見とれ「もう一度若狭屋さんに行って30両びた一文まからないからと見せておいで。それでも、まけろと言ったら好きな所に行っても良いよ。」と息子に言い聞かせた。「その前に、お水を一杯ちょうだい。後の半分をお前もお飲み。ではお行き。」矩随が若狭屋から30両を持って帰ると母は自害している。
浜野矩随はその後、父親に優るとも劣らぬ名彫師になったという噺である。