ウィスコンシンで会った人々 その31 「確からしい知識」と人間の行動

ウィスコンシンの大学院へ進んで驚いたことはいろいろある。その第一は実験計画や推測統計の授業内容が濃く、その知識の習得を調べる試験が厳しいということである。もう一つの驚きは、科学的方法という科目を履修しなければならないことであった。

筆者の所属したのは行動障害学科(Department of Behavioral Disabilitis)といった文字通り人間の行動を基本にして、様々な行動の形態や特徴をとらえ、それを変容させたり発展させることを目指して科目が設定されていた。その方法は応用行動分析とか行動療法という手法に現れている。

こうした研究分野は行動科学と呼ばれる。行動科学はなかな手強い学問である。人間の自由、その生と死、人間と環境、天賦の才能、思考や認知、知識と実在、価値と道徳、など哲学的ともされる課題や問いを扱うからである。以前、このブログで帰納推理ということを話題にしたことがある。そして「確からしい知識」とか「確実に起こりうる見込み」といった現象のことに触れた。

行動科学の本来の仕事は、経験から得た知見を仮説としてそれを検定するという演繹的なテストのことだとも述べた。集めた事例を吟味してそれを一般化にいたる合理的な方法を見いだそうとする。そのためには観察や調査、そして実験に耐えられるかどうかの合理的な方法を求めるのである。

帰納推理とは特殊から一般を推論する方法である。観察や実験から科学の法則を導き出す方法ともいえる。この方法の特徴は演繹推理と異なり、絶対確実な推理ではないという点である。何十回、何百回の観察や実験によって確かめられたといっても、あるとき別な方法によって意外な結果が表れるかもしれないのである。

従って、科学の知識とは確実ではない推論を積み重ねて構成されるものだから、確実な知識ではない、「確からしい知識」といわれる。ある事が起こり得る「見込み」である蓋然性ということが、人間界の現象、特に人間の行動上の特徴といえそうである。

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