活字文化で育った筆者ら、といっても1960年代に人文科学系の学生だった者には、いくつかの出版社に随分お世話になった時代がある。例えば、辞書といえば岩波書店や研究社、法律であれば有斐閣、心理学であれば平凡社や誠心書房。貧乏ながら教科書に参考書に、こうした出版社から沢山購入したものだ。
中でも思い出に残るのが「憲法」という法律書である。もちろん著者は宮沢俊義。出版社は有斐閣である。この書店は「六法全書」の刊行で知られている。1957年の創業80周年には、「法律全集」を出しているいるから、今年で138年の歴史を有する文字通り出版業界の老舗である。
宮沢俊義のこの本だが、法学部の学生はこぞって読んだはずだ。特に憲法の制定について「八月革命」という画期的な理論を発表する。これは1945年八月にポツダム宣言(Potsdam)を受諾することによって主権が天皇から国民に移譲したというのである。これが「八月革命」である。それゆえ、日本国憲法は国民が制定したのだという立場である。
今や日本国憲法は揺れている。その最たる議論は「現行憲法は押しつけられたものだ」という論題である。自主憲法をという声は根強い。現在の内閣もこうした立場をとっていると考えられる。しかし、自主憲法の制定は以下の述べるが法理上の大きな課題がある。そのためか部分的な改訂で対応しようとしている。もっと云うならば現行憲法条項の解釈を広げて国の平和と安全を保つことに腐心している。その最たる条項が憲法第九条の二項である。
ポツダム宣言の第十項には、民主主義、言論・宗教・思想の自由、基本的人権の尊重がうたわれている。これは従来の「国体」から180度の転換であり、「革命」であると宮沢は説いた。玉音放送と呼ばれた終戦の詔勅は天皇による国民への主権の同意であり承認である。この時点で大日本帝国憲法は国民主権と矛盾する。よって帝国憲法は効力を失ったという論理である。
そこで自主憲法の制定だが、かつてのポツダム宣言の受諾とそれによる帝国憲法の失効というような事態は当面起こりえない状況である。現行憲法の廃止と自主憲法の制定には、なにか革命的な出来事が必要なのである。ここに憲法制定の法理的な困難が立ちはだかるのである。