「国の見解に反するような放送をする自由はない」という質問が国会で取り上げられた。「公共電波を使って国内外に反日自虐番組をし続けたのだ誰か」という国会での発言もある。NHK会長のハイヤー代の支払いを巡り、情報がリークされるようなガバナンスとかコンプライアンスも取り上げられた。「政府が右ということに対して左とはいえない」というこの会長の発言も大いに注目された。
「行き過ぎた表現の自由を問題視し、表現の自由を濫用して虚偽、歪曲、捏造、印象操作など偏向した恣意的な放送をしている」といったことも国会で取り上げられている。「国家のプロパガンダを流す国営放送であることを求める」とは、恐ろしい発言だといわざるをえない。
今、放送法第一条二項にある「放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによって、放送の自由を確保する」が揺らいでいる。広辞苑には、「不偏不党」とは「いずれの主義や党派にくみしないこと、公正で中立の立場をとること」とある。一体、報道や放送における言論の自由とはなにか、である。それについて小さな思い出がある。
バルセロナ(Barcelona)の中心街からカタルーニャ鉄道(Catalunya)に乗り、モンセラット山(Montserrat)の中腹に向かったときだ。そこの標高720mに壮大な修道院がある。この修道院へ向かう電車内で隣り合わせた夫婦である。身なりは質素である。旦那はむっつりし、終始眠ったふりをして視線が合わなかった。婦人に話しかけるとサンクトペテルブルク(Saint Petersburg)から休暇で来たという。もちろん筆者は一度も訪ねたことのない街だが、ドキュメンタリーなどでこの街の歴史は少しは知っていた。かつてのレニングラード(Leningrad)で、大戦中ナチスドイツにより900日にわたる包囲を受けたところである。
この婦人は経済関連の記者や編集をしているという。「プラウダ紙(Pravda)か?」と尋ねると、プラウダは形や内容を変えてしまったと説明してくれた。そして「プラウダ」とは「真実」という意味であることも教えてくれた。ちなみにイズベスチヤ(Izvestia)という機関誌もあった。こちらはソ連政府の政府見解が発表される公式紙だった。イズベスチヤとは「ニュース」という意味である。
ご婦人は会話で次のような小咄を紹介してくれた。プラウダ紙は無味乾燥な公式発表と標語ばかりで、読みにくい新聞であった。共産党にとって都合の悪い事は極力書かれず、時には事実が歪曲されて、捏造も行われた。多くの国民もそのようなことはわかっていたので、行間を読みながら真実を探ろうとしたそうである。市民の間で次のようなやりとりがあったとか。
「プラウダとイズベスチヤの違いは何か?」
「プラウダにイズベスチヤ(ニュース)はなく、イズベスチヤにプラウダ(真実)はない」
この婦人が紹介してくれた車内での小咄から今のわが国の公共放送のあり方を考えさせてくれるヒントがある。