ウィスコンシン州と陸軍への調査やハリウッドへの追求 その三

 1953 年秋、マッカーシーの委員会はアメリカ陸軍に対する不可解な調査を開始します。これはマッカーシーが陸軍通信部隊の研究所の調査を開始したことから始まります。彼は陸軍の研究者の間に危険なスパイ組織があるというニュースでいくつかの見出しを飾ります。しかし、数週間の公聴会の後、彼の調査は何も成果をあげることができませんでした。国務省の外交政策に関わった中国学者オーエン・ラティモア(Owen Lattimore)、元陸軍参謀総長のジョージ・マーシャル(George Marshall)らもマッカーシーからにらまれます。マッカーシーの赤狩りは政界だけではありませんでした。ハリウッドの映画界のスターであったチャーリー・チャップリン(Charles Chaplin)、ヘンリー・フォンダ(Henry Fonda)、グレゴリ・ペック(Gregory Peck)、さらには物理学者のロバート・オッペンハイマー(Robert Oppenheimer)も遡上にあげられます。

チャーリー・チャップリン

Julius Robert Oppenheimer

 陸軍とマッカーシーの公聴会が開かれます。1954 年初頭、米陸軍はマッカーシーとその主任顧問ロイ・コーンが、マッカーシーの元補佐官でコーンの友人で、当時陸軍に兵卒として勤務していた デイビッド・シャイン(David Schine)に有利な待遇を与えるよう陸軍に不当に圧力をかけたと告発します。共和党の上院議員カール・ムント(Karl Mundt)が委員長に任命され、陸軍とマッカーシーの公聴会は 1954年4月に開催されます。公聴会は36日間続き、ABCとテレビネットワーク会社のデュモント(DuMont)によって生放送され、推定2000万人が視聴します。32人の証人と200万語の証言を聞いた後、委員会はマッカーシー自身はシャインのために不適切な影響力を行使しなかったが、コーンは過度に執拗または攻撃的な努力を行った、と結論付けます。

マッカーシズムの後退
 マッカーシーにとって、委員会の結論の出ない最終報告書よりもずっと重要だったのは、この公聴会に関する報道が彼の人気にマイナスの影響を与えたことです。聴衆の多くは彼を横暴で無謀で不誠実だとみなし、新聞でも毎日の公聴会の要約もしばしば不利な報道がなされます。公聴会の終盤、スチュアート・サイミントン(Stuart Symington)上院議員はマッカーシーに対して怒りと予言に満ちた発言をします。マッカーシーから「あなたは誰も騙せません」と言われると、サイミントン議員は「上院議員、アメリカ国民は6週間もあなたを見てきました。あなたもまた、誰も騙せません」と答えたといわれます。1954年1月のギャラップ世論調査(Gallup Poll)では、回答者の50%がマッカーシーに対して肯定的な意見を持っていました。6月にはその数は34%に減少します。同じ世論調査で、マッカーシーに対して否定的な意見を持つ人は29%から45%に増加していきます。

 共和党員や保守派の間では、マッカーシーを党と反共産主義にとっての不安な人物だととみなす人が増えていきます。ジョージ・ベンダー(George H. Bender)下院議員は「共和党に対する不満が高まっている。マッカーシズムは魔女狩り(witch-hunting)、市民の自由の否定と同義語になっている」と指摘していきます。長年にわたり頑固な反共産主義者として名声を博してきた記者フレデリック・ウォルトマン(Frederick Woltman)さえも、ニューヨーク・ワールド・テレグラム紙(New York World-Telegram)にマッカーシーを批判する5回シリーズの記事を書きます。ウォルトマンはマッカーシーが「反共産主義の大義にとって大きな重荷になっている」と述べ、「事実や事実に近いことを極端にねじ曲げて、その分野の権威を反発させている」と非難するのです。

リコール運動と非難決議
 やがてマッカーシーに対するリコール運動が始まります。リコールは無謀だという批判にもかかわらず、「ジョーは去らねばならない」という運動は勢いづき、他の共和党指導者、民主党員、実業家、農家、学生を含む多様な連合の支持を得ていきます。ウィスコンシン州憲法は、リコール選挙を強制するために必要な署名数は、選挙で集められた署名数の4分の1を超えなければならないと規定していました。反マッカーシー運動は 60日間で約 404,000の署名を集める必要がありました。労働組合や州民主党からの支援がほとんどなかったため、大まかに組織されたリコール運動は、特に陸軍とマッカーシーの公聴会が同時に行われていた間、全国的な注目を集めました。

 マッカーシーは非難を受けた後も、さらに 2 年半、上院議員としての職務を続けます。しかし、大物公人としての彼の経歴はもはや通用しなくなります。上院の同僚たちは彼を避け、上院議場での彼の演説は、ほとんど人がいない議場で行われたり、あからさまに無関心な態度で受け取られたりしました。かつては彼の公の発言をすべて記録していた報道機関は彼を無視し、外での講演依頼はほとんどなくなりました。ついにマッカーシーの政治的脅迫から解放されたアイゼンハワーは、閣僚にマッカーシズム(McCarthyism)は今や「マッカーシズム」(McCarthywasm)であると皮肉を言うほどでした。

 それでも、マッカーシーは共産主義と社会主義を非難し続けました。彼はソ連との首脳会談に大統領が出席することに対して警告し、「暴政と殺人の大義を推進することなく、暴君や殺人者に友情を示すことはできない」と述べます。彼は「共産主義者との共存は不可能であり、名誉あることではなく、望ましいことでもない。我々の長期目標は、地球上から共産主義を根絶することであるべきだ」と宣言するほでした。上院での最後の行動の1つとして、マッカーシーはアイゼンハワー大統領によるウィリアム・ブレナン(William J. Brennan)の最高裁判所判事への指名に反対します。これは、ブレナンが直前に行った演説でマッカーシーの反共産主義調査を「魔女狩り」と評したからです。しかし、マッカーシーの反対は支持を得ることができず、彼はブレナンの承認に反対票を投じた唯一の上院議員となります。
(投稿日時 2024年9月19日)  成田 滋