ルイセンコの獲得形質の遺伝という学説はネオ・ダーウイニズム(Neo-Darwinism)とも呼ばれる。平たく一つの例でいえば、植物は冬の低温状況に一定期間さらされることによって開花能力が誘導される、といったことである。つまり寒いソ連においても品種改良に時間をかければ多くの植物が育ちうるという立場である。
「獲得形質も遺伝する」というルイセンコの説は、スターリンの主張した「弁証法的唯物論」に適合する学説として賞賛され、1940年までスターリンの支持を得る。そしてソ連の科学界での支配的な立場を占める。ルイセンコの学説に反対する生物学者はポストを奪われ強制収容所に送られたり粛清された。
日本の学界にも1947年に導入されルイセンコの学説を擁護する学者があらわれる。日本農民組合、日本共産党、社会党などもソ連農業を理想と考えミチューリン農法を支持し、政府に対して支援や研究に取り組むことを求めた。例えば春播き麦への注目、温度管理の必要などでこの農法の普及や導入のきっかけとなった。一時、低温処理を利用した農法は、東北や北海道の農業にも少なからず影響したがさしたる効果は上げられなかった。
スターリンの死、スターリン批判によって「社会主義の英雄」といわれたルイセンコは似非科学者と烙印を押されそのの学説は完全に否定される。学問上のポグロム政策(攻撃と迫害)に積極的に荷担し、ソ連の科学の発展に由々しい損失を与えたのがルイセンコであった。
メドヴェージェフ兄弟は著書「知られざるスターリン」で、ルイセンコのスターリンによって庇護された唯物論的で階級的な学説を次のように糾弾する。
犯罪的な地に墜ちた学問の権威、生物工学の発展の遅れがもたらされた。さらに原子物理学や宇宙工学の分野での高価な開発の肥大化がロシアの学問を過度に国庫に依存させることになった。ソ連では学問は技術や経済発展の推進力にならなかった。学問は常に復興を繰り返し、技術と経済発展は基本的にすでに外国で達成されたものの模倣を通して行われてきた。
ルイセンコ学説後、ソ連において自然科学を含めてあらゆる学問は、国家と同様に階級的な性格を持つという旧くなったテーゼが蔓延した。科学の方向を観念論的と唯物論的なものに分かつ考え方がソ連の科学の進展を遅らせたのである。