筆者の叔父は1950年代に、クラスノヤルスク(Krasnoyarsk)あたりで死亡したことを厚生省から伝えられた。かつてロシア帝国時代、クラスノヤルスクは政治犯らの流刑地であったことがWikipediaに記載されている。今やクラスノヤルスクはソ連の大都市である。
1946年、ソ連の各地でウラン鉱山が発見される。さらに続いてプルトニウムとウラン爆弾の製造に着手する。原子力コンビナートの建設も始まり、工業用原子炉が造られる。しかし、さまざまな原因で引き起こされた事故によって頻繁に建設は停止した。原子炉全体の解体と新しい組み立てが必要となった。このときの修理の際に施設で大勢の労働者が汚れた作業に従事し、数千人規模で被爆したといわれる。福島第一原発事故とその後始末と同じ状況である。
プルトニウムのコンビナートから出る放射性廃棄物は施設の中に流れる川に流されていた。そのため、コンビナートから数10キロに渡って深刻な汚染と地域の農民に多くの放射性疾患を引き起こした。
1949年にソ連は最初の原爆実験に成功する。この原爆製造計画はスターリンの指導によるものである。さらにスターリンは第二の原子力コンビナートを計画する。原子炉を含めた原爆・放射化学工場、原爆製造センターの建設である。こうしたセンターの建設は軍事機密であったはずである。
当時は、冷戦の真っ直中、米ソは競って核兵器の開発にしのぎを削る時代である。従ってこの計画は国の安全保障を著しく高めることになる。アメリカはソ連が予想以上に早く核兵器の保有国になったことに驚いたといわれる。ソ連の原爆製造の基本情報はアメリカ人やイギリス人などのスパイによってソ連にもたらされたといわれる。ローゼンバーグ夫妻(The Rosenberg)も逮捕される。
Krasnoyarsk
The Rosenberg