アメリカ合衆国建国の歴史 その130 歳入超過と関税

民間年金法案が相次いで提出されたのは、財務省の黒字が拡大したことも一因でした。南北戦争以来、毎年、歳入が歳出を上回っていたため、様々な目的のために公的資金を充当することが提案されます。この黒字は、歳入超過の主な原因である関税に注目されるようになります。1883年、議会は関税を見直し、ある品目では関税を引き上げ、ある品目では関税を引き下げるという変更を何度も行っいますが、歳入はほとんど減りませんでした。クリーブランドは、この余剰金が非常に大きな問題であると考えます。余剰金は、本来なら流通させることができるはずのお金を財務省にため込み、政府の無謀な支出を助長するものだと考えたのです。

Stephen Cleveland

他の多くの民主党員と同様、彼は高い保護関税を嫌っていました。クリーブランドは、議会がこの問題に果敢に取り組むことを2年間待ち続けるのですが、1887年の年次教書のすべてをこの問題の議論と関税引き下げのアピールに費やすという、異例の戦術をとります。その後、下院はクリーブランドの考えに概ね沿った法案を可決しますが、上院はこれを否決します。関税は1888年の大統領選挙における主要な争点となります。

1877年以降、何10万人もの農業入植者が西方の平原に移り住み、それまで放牧地を支配していた牧畜業者と土地の支配権をめぐって争うようになりました。平原への人口流入の圧力は、入植に適した耕作地の供給が減少していることに注意を促し、西部に農民を待ち受ける広大な土地の貯蔵庫がなくなる日を予見させたのでした。また、何100万エーカーもの西部の土地が投機目的で所有されていること、さらにこうしたっよよよ土地が疑わしい手段で取得されたこと、あるいはその土地が与えられたときに負債を返済しない鉄道会社がまだ所有しているという事実にも関心が寄せられました。

クリーブランドは就任早々、これらの土地の一部が鉄道会社、投機家、牧畜業者、製材業者によって不正に取得されたという証拠を突きつけられます。そこでクリーブランドは調査を命じ、1年以上にわたって土地局の捜査官が西部を調べ、不正や義務の不履行の証拠を発見します。クリーブランドは毅然として行動し、大統領命令と裁判によって、彼は81,000,000エーカー以上の土地を国有地とすることに成功します。

Grate Plain

しかし、多くの地域で一社が鉄道輸送を独占していたため、鉄道会社の多くは、多くの顧客が不公平で差別的であると感じる経営を行っていました。1884年以前には、それまでの10年間のグレンジャー法(Granger laws)という鉄道会社による様々な不正行為を禁止する州法の効果がないことは明らかとなり、政治団体は救済を連邦政府に求めることになります。このとき、西部の農業団体は、自分たちも鉄道会社による差別の犠牲者であると考える東部の有力な実業家たちと手を結んでいきます。この強力な政治的同盟は、1884年に両党の国政綱領に鉄道規制を盛り込むよう説得し、1887年に連邦議会で州間通商法(Interstate Commerce Act)を制定させることになります