アメリカ合衆国建国の歴史 その128 ガーフィールドとアーサー政権

ガーフィールドは共和党の二大派閥であるスタルワート派(Stalwarts)、ハーフブリード派(Half-Breeds)とはあまり関係がありませんでしたが、大統領に就任すると、ハーフブリードのジェイムズ・ブレイン(James G. Blaine)を国務長官に任命してスタルワート派を動揺させます。さらに彼は、ニューヨークの税関長にしある人物を任命します。同州出身の二人の上院議員コンクリング(Conkling)とトーマス・プラット(Thomas Platt)はこうした人事に不満で、ニューヨークの議会での再選を期待して上院の席を辞任しますが失敗します。

この党内抗争の悲劇的なクライマックスは、1881年7月2日、ガーフィールド大統領がワシントンD.C.で、失意によって精神錯乱した求職者とスターウォート支持者によって狙撃されたことでした。ガーフィールドは2か月間治療を受けますが9月19日に死去し、チェスター・アーサー(Chester A. Arthur)副大統領が後を継ぎます。

Chester Arthur

アーサーが大統領に就任したことは、広く世間を騒がせます。アーサーは副大統領になるまで公職に就いておらず、党内ではスタルワート派と密接な関係をもっていました。そのため、他の党派と同様、公務員制度改革に敵対すると考えられ、彼の副大統領就任はヘイズ大統領に対する意図的な反撃であると一般に見なされていました。ガーフィールド内閣の閣僚は直ちに辞表を提出しますが、アーサーは彼らに当面は留任するよう要請します。しかし、1882年4月中旬に1人を除いてすべての閣僚が交代します。

アーサー大統領は迅速にかつての政治的友人らとは距離を置き、批評家や国民を驚かせます。1881年12月、アーサーは議会に対する初の年頭教書で、連邦公務員の任命を党派的統制から排除する法案を適格に承認することを発表します。1883年1月、議会はペンドルトン公務員法(Pendleton Civil Service Act)を可決し、アーサーはこれに署名します。この法律は、公務員委員会を設立し、特定のカテゴリーの役職への任命は試問に基づいて行われ、任命された者はその役職に無期限で就くことができることを規定したものでした。

Democrat emblem

1884年の大統領選挙では、アーサー政権は、彼の就任を疑問を抱いていた多くの人々の尊敬を集めていました。しかし、党の指導者たちから強い支持を得ることはできませんでした。共和党の最有力候補は、長年にわたって権勢を誇っていたブレインで、彼は党派的な精神が強すぎるとか、何年も前の下院議長時代に汚職の嫌疑をかけられたという反対意見もありましたが、大統領候補の指名選挙において第4回の投票で指名されます。