南部の白人は、ワシントンからの政治経済的指導がほとんど与えられなかったため、政府を再編成する際の方策のために、自分たちの伝統的な政治指導者に頼ることとなりました。南部の新しい体制は、不思議なことに戦前の体制に似ていました。確かに、奴隷制は廃止されました。しかし、再建された南部の各州政府は、解放奴隷の権利と特権を規制する「ブラック コード」(Black Codes)の採用を進めました。州ごとに異なりますが、これらのコードは一般に、アフリカ系アメリカ人を劣等者として扱い、社会における二次的および下位の地位に追いやるものでした。
アフリカ系アメリカ人は土地を所有する権利が制限され、武器を持つことができず、放浪やその他、犯罪のために奴隷状態におかれる可能性がありました。南部の白人の行動は、アフリカ系アメリカ人の権利を最小限の保護さえも保証する準備ができていないことを示していたことです。1866年5月に起こったメンフィス(Memphis)と1866年7月に起こったニューオーリンズ(New Orleans)での暴動では、アフリカ系アメリカ人が残忍な暴行を受け無差別に殺されるという事態になりました。
1865年から1866年の議会会期中の北部共和党員は、こうした暴動の発生を予想していたようで、必然的にジョンソン大統領と対立することになります。議会は、奴隷制から自由への移行を容易にするために1865年3月に設立された福祉機関である解放奴隷局を継続させて、アフリカ系アメリカ人の権利を保護しようとしました。しかしジョンソンは法案に拒否権を行使します。アフリカ系アメリカ人の基本的な公民権を定義し保証する法律も同様の運命を辿るのですが、共和党は大統領の拒否権を無視することに成功します。大統領がホワイトハウスのポーチから共和党の指導者を「裏切り者」として非難する一方で、議会の共和党員は南部を再建するための独自の計画を策定しようとします。彼らの最初の取り組みは、憲法修正第14条の通過でした。これは、皮膚の色に関係なく、すべての市民の基本的な公民権を保証し、議会での代表者を減らすと脅してアフリカ系アメリカ人に選挙権を与えるように南部の州を説得しようするのです。