アメリカ合衆国建国の歴史 その103 戦争の激化

バーンサイドはポトマック陸軍の司令官としてジョセフ・フッカー将軍(Gen. Joseph Hooker)を任命し、フッカーは1863年4月に攻勢に転じます。彼はヴァジニア州チャンセロズビル(Chancellorsville)でリーの陣地を奪取しようとしますが、完全に出し抜かれ、撤退を余儀なくされます。その後、ロバート・リーは2度目の北部侵攻を開始します。ペンシルベニア州に入り、小部隊の偶然の出会いがゲティスバーグ(Gettysburg)でのクライマックスとなる戦いとなります。リー軍はゲティスバーグの戦いで撃退され、ヴァジニア州に後退します。ほぼ同じ頃、西部でも転機が訪れます。2ヶ月にわたる巧みな作戦の末、1863年7月4日、グラントはミシシッピー州ヴィックスバーグを攻略します。まもなくミシシッピ川は完全に北軍の支配下に入り、事実上南軍は二分されることになります。

Gettysburg

1863年10月、W.S.ローズクランズ将軍(Gen. W.S. Rosecrans)率いる北軍がジョージア州チカマウガ・クリーク(Chickamauga Creek)で敗れた後、グラントがこの戦場の指揮に召集されます。ウィリアム・シャーマン(William Sherman) とジョージ・トーマス将軍(Gen. George Thomas)の巧みな支援により、グラントは南軍のブラクストン・ブラッグ(Braxton Bragg)をチャタヌガ(Chattanooga)から追い出し、テネシーから撤退させます。シャーマンはその後ノックスビル(Knoxville)を確保します。

1864年3月、リンカンは北軍の最高司令官としてグラントを任命します。グラントは東部のポトマック陸軍の指揮を執り、すぐに北軍の圧倒的な兵力と物資の優位に基づく消耗戦の戦略を立案します。彼は5月に行動を開始し、荒野のスポツィルバニア(Spotsylvania)、コールドハーバー(Cold Harbor)の戦いで多大な犠牲を払いながらも、6月中旬にはリーをヴァジニア州ピーターズバーグ(Petersburg)の要塞に釘付けにします。ピーターズバーグの包囲は10ヶ月近く続き、グラントは徐々にリーの陣地を包囲していきます。他方、シャーマンはジョージア州で唯一重要な南軍部隊と対峙していました。シャーマンは9月初めにアトランタを占領し、11月にはジョージア州を480km行軍し一帯を破壊しながら、12月10日にサバンナ(Savanna)に到着し占領します。

Gettysburg

1865年3月、リーの軍隊は死傷者と脱走兵により縮小し、補給も絶望的に不足します。グラントは4月1日にファイブフォークス(Five Forks)で最後の進軍を開始し、4月3日にリッチモンドを占領し、4月9日に近くのアポマトックス・コートハウス(Appomattox Court House)でリー将軍の降伏を受け入れます。シャーマンはノースカロライナ州を北上し、4月26日にJ.E.ジョンストン(J.E. Johnston)の降伏を受け入れ、ここに戦争は終わりを告げます。

南北戦争における海軍の作戦は、陸上での戦争に比べれば二の次でしたが、それでもいくつかの有名な戦果がありました。ファラガットはニューオリンズとモービル湾(Mobile Bay)での行動を正当に評価され、モニターとメリマックの戦い(Monitor and Merrimack)は、しばしば近代海戦の幕を開けたとされます。しかし、この海戦の大部分は封鎖戦争であり、北軍は南軍のヨーロッパとの通商を止めるのにほぼ成功するのです。