アメリカ合衆国建国の歴史 その93 南部と奴隷制度

南部は、気候風土、綿花、タバコ、砂糖などの主食作物の生産に適した農園制度、そして特に、アメリカの他の地域では廃止または禁止されていた奴隷制が根強く残る、最も顕著で特徴的な地域でありました。しかし、南部の白人のすべて、あるいはほとんどの人々が、「特異な制度」に直接的に関与していたと考えるべきでありません。実際、1850年には、奴隷州に住む白人人口約6,000,000人のうち、奴隷所有者は347,525人に過ぎませんでした。白人の半数は4人以下の奴隷を所有し、黒人所有の農園主と呼べるものではありませんでした。南部全体で100人以上の奴隷を持つ者は1,800人以下であったといわれます。

Nat Turner

とはいえ、奴隷制は南部の生活様式全体に独特の色合いを与えていました。大農場主は少数でしたとが、裕福で名声があり、権力者であり、しばしばその地区の政治的、経済的リーダーであり、その価値観は南部社会のあらゆる階層に浸透していました。小規模農民は奴隷制に反対するどころか、自分たちも努力と幸運に恵まれれば、いつか農場主の仲間入りができるかもしれないと考えており、彼らは血縁、結婚、友情の絆で密接に結びついていました。このようにほぼ全員が奴隷制を支持する背景には、北部や西部の多くの白人が共有していた「黒人は生来劣等な民族であり、彼らの故郷アフリカでは野蛮な状態に置かれていてたが、奴隷制によって統制され初めて文明社会で生きていける」という普遍的な信念を持っていました。1860年には、南部には約25万人の自由黒人がいましたが、南部の白人の多くは、奴隷が解放されても元奴隷と平和に共存できるなどとは、決して信じようとはしませんでした。

Denmark Vesey

サントドミンゴ(Santo Domingo)で起こった黒人の反乱、1800年にヴァジニアでアフリカ系アメリカ人ガブリエル(African American Gabriel)が率いた短期間の奴隷の反乱、1822年にサウスカロライナ州のチャールストンでデンマーク・ベシー(Denmark Vesey)が率いた黒人の計画、そして特に1831年にナット・ターナー(Nat Turner)が率いたヴァジニアの流血と反乱が起こります。白人らは、こうした反乱から、アフリカ系アメリカ人を鉄の統制下に置かなければならない考えますが、戦慄も覚えていきます。南部の白人らは、部外からの奴隷制に対する反発の高まりに直面し、聖書的、経済的、社会学的な根拠に基づいて奴隷制を擁護する緻密な論を展開していきます。