この時代、都市は新旧ともに繁栄し、その人口増加は国全体の目覚しい成長を上回ります。その重要性と影響力は、そこに住む比較的少数の市民をはるかに超えていきました。都市フロンティア(urban frontier) であれ、旧海岸地域であれ、前世紀末の都市は、その周辺地域の富と政治的影響力の中心となりました。世紀半ばに人口が50万人に達したニューヨーク市は、ニューヨーク州ポキプシー(Poughkeepsie)やニュージャージー州ニューアーク(Newark)のような都市とは桁違いの課題に直面していました。
しかし、この時代の変化のパターンは、東部都市でも西部都市でも、古い都市でも新しい都市でも、大都市でも小都市でも驚くほど似ています。その生命線は商業にあり、商人、専門職、地主などのエリートが、町政に経済性を求める古い理想を不本意ながら捨て去っていくのです。そして、新たな問題に対処するために増税が行われ、世紀半ばの都市社会が新たなチャンスを手に入れることができるようになっていきます。港湾の整備、警察の専門化、サービスの拡充、廃棄物の確実な処理、街路の改善、福祉活動の拡大など、これらはすべて改善することが社会的に有益であると確信した資産家たちの政治的手腕と利己心の結果でありました。
都市はまた、教育や知的進歩の中心地ともなりました。「貧困層」や「慈善」学校の汚名から解放され、比較的財政に恵まれた公的教育制度の出現や、技術革命によって可能になった活気ある低価格の新聞「ペニープレス」(penny press)の出現は、最も重要な発展の一つででありました。拡大するアメリカ社会における女性の役割は、相反する考え方によって変化していきます。一方では、解放を後押しする要因も生まれました。例えば、成長する都市では、公立学校で初等教育を受けた少女や若い女性に、事務員や店員として新しい仕事の機会が与えられました。
さらに公立学校の教師が必要とされたことも、女性の自立への道を開いていきました。より高いレベルでは、マサチューセッツ州サウスハドリー(South Hadley)のマウントホリヨーク(Mount Holyoke)のような女子大学の設立(1837年)や、オハイオ州のオベリン(Oberlin)(1833年)やアンティオキア(Antioch)(1852年)のようなごく少数の男女共学の大学への女性の入学によって、上昇志向のはしごを築くことができたのです。また、近代最初の女性医師とされるエリザベス・ブラックウェル(Elizabeth Blackwell)や、アメリカ女性で初めて宗派を超えた聖職に就いたオリンピア・ブラウン(Olympia Brown)など、稀に専門職に就く女性もいました。
他方、伝統的な教育を受けた上品な家庭の女性たちは、依然として柔らかく艶やかな期待に縛られていました。大衆的なメディアで語られる「女性としての義務」には、夫の財産を守ること、子どもや使用人の宗教的・道徳的教育、装飾品や読み物の適切な選択による高い感性の育成などが含まれていました。「真の女性」とは、多忙な男性が市場の厳しい世界で一日の激務を終えた後に、家庭を静寂と休息の場所とすることが期待されました。そうすることで女性は崇拝されながらも、明らかに非競争的な役割に留まっていました。