1816年のジェームズ・モンロー(James Monroe)と1824年のジョン・アダムス(John Adams)の大統領選挙までの数年間は、アメリカの歴史で「好感情の時代」(Era of Good Feeling)として長い間知られています。党派抗争が比較的少なかった時代となったからです。このフレーズは、モンローが大統領就任の初めにニューイングランドを訪れたときに、ボストンの編集者によってつけられました。 連邦主義の中心地の人々が、共和党の大勝利だけでなく、連邦党の終焉を決定的な選挙で示した南部大統領の訪問について、このような前向きな言葉で表現したのです。このことは連邦党という政敵が傾いた劇的な証しともいえるものでした。もちろん、過去の部分的で政治的な違いはありましたが。
その後、いろいろな学者は、1812年の米英戦争におけるアメリカの戦略と戦術、戦争の具体的な結果、そして知恵にさえ疑問を投げかけました。しかし、現代のアメリカ人にとって、印象的な海軍の勝利とニューオーリンズでのイギリス軍に対するジャクソンの勝利は、モンローが描くことができた「好感情の時代」という貯水池のようなものを作り出しました。
ナショナリズムのムードを醸したのは、米英戦争後のアメリカの外交政策でした。フロリダは交渉で1819年にスペインから買収されました。その成功は、ジャクソンが外交上の精緻さよりも、外国との国境の不可侵性や、彼を支援する国の明白な準備に無関心であったことによるものでした。モンロー主義(Monroe Doctrine)(1823)は、実際には長い大統領メッセージに挿入されたいくつかのフレーズであり、アメリカはヨーロッパ問題に関与せず、南北アメリカへのヨーロッパの干渉を受け入れないと宣言するものでした。他国への直接の影響はわずかであり、それ自体の市民の感情を測定することは不可能でしたが、旧世界を新世界から警告するという自信に満ちた口調は、国を席巻したナショナリストのムードをよく反映していました。
国内では、マッカロック対メリーランド(McCulloch v. Maryland)やギボンズ対オグデン(Gibbons v. Ogden)などの事件におけるマーシャル裁判長(Chief Justice Marshall)の下での最高裁判所の判決は、州を後回しにし、議会と国力を強化することによってナショナリズムを促進する内容でした。1816年に第二合衆国銀行を認可するという議会の決定は、1812年の米英戦争によって明白となった国の財政的弱さ、および財政的利益への関心によるものでした。南部ジェファソン(Southern Jeffersonians)流民主主義を信奉する厳格な構造主義者が、こうした措置を支持するということが、かなりのナショナリズムの現れといえます。おそらく、新しい国民の統一感の最も明確な兆候は、勝利した共和党で、圧倒的に再選された旗手となったモンローでした。対抗馬がいない選挙はジョージ・ワシントン以来のことで、ニューハンプシャー州の選挙人1人のみがジョン・アダムズ(John Adams)に投票するという結果となりました。しかし、1825年2月第1回投票でアダムズは大統領に選出されます。