アメリカが、強大なイギリスを相手に戦争を成功させることができるかどうかは、全く見通せない状態でした。散在する植民地は、決まった統一性をほとんど持たず、集団行動の経験も浅く、軍隊を創設し維持しなければなりませんでした。大陸議会以外に共通の制度を持たず、大陸の財政の経験もほとんどなかったからです。アメリカ人はフランスの援助なしには戦争に勝つことはできませんでした。フランス王政は、反英ではあってももとは親米ではありませんでした、アメリカ人が戦場で何ができるかを注意深く見守っていたのです。フランスは、アメリカの独立宣言後すぐに武器、衣料、借款の供給を陰ながら始めすが、アメリカとの正式な同盟が結ばれたのは1778年になってからでした。
アメリカの課題の多くは独立の達成後も続き、何年も、あるいは何世代にもわたるアメリカ政治の悩みでした。しかし、他方で植民地には、あまり目立たちませんが貴重な力の源泉がありました。事実上、すべての農民が自分の武器を持っており、一晩で民兵隊(militia)を結成することができました。根本的には、アメリカ人は長年にわたって、主にイギリスの新聞から基本的に同じ情報を受け取っており、それが植民地の新聞に同じ内容で転載されていたからです。その結果、主要な公共問題に関して、極めて広範な民意が形成されるようになりました。もう一つの重要な要因は、アメリカ人が数世代にわたって、選挙で選ばれた議会を通じて自らを統治してきたことです。その結果、議会は委員会政治において高度な経験を積んできていました。
この制度的積み上げ(institutional memory)という要素は、自治の意識を形成する上で非常に重要なものとなりました。人は習慣的な方法に愛着を持つようになりました。特に課題を処理する習慣的な方法である場合、イギリスやヨーロッパ大陸で発表された共和制の理論と同様に、関係者にとって浸透していき、重要なイデオロギーの基礎を形成することになりました。さらに、植民地の視点から見ると植民地の自治は、17世紀半ばにイギリス議会が内戦を戦い、1688年から1689年にかけての名誉革命(Glorious Revolution)によって再確立されたことを学ぶこととなりました。植民地の人々は、自治の考え方がイギリス政府の原則と連続しており、一貫性があるように思えたのでした。
また、自治の経験が植民地の指導者たちに事態の進め方を教えていたことも重要でありました。1774年に大陸議会が開かれたとき、代表者は手続きについて議論する必要はなく、すでにそれを知っていたのでした。最後に、議会の権威は正統性の伝統に根ざして、それまでの選挙法が使われました。有権者はやがて廃止される植民地議会から新しい議会や州の大会へ、さしたる困難もなく賛同することになりました。