大陸会議の目的は、イギリス政府に圧力をかけ、植民地のあらゆる不満を解消し、かつての調和を取り戻すことにありました。そこで議会は、不輸入から始まり、不消費に移行し、米の収穫が輸出された後に不輸出で終了するという、綿密で段階的な経済圧力計画を植民地に約束させる協会を設置することになります。ニューイングランドやヴァジニアの代表の中には、独立を視野に入れて発言する者もいましたが、大多数の代表は、協議した措置や国王やイギリス国民への新たな訴えによって、今後こうした会議を開く必要がないことを期待し散会します。しかし、これらの措置が失敗した場合には、翌年の春に第二回目の議会が招集されるという決議もします。
大陸会議で達成された団結の裏には、植民地社会における深い分裂がありました。1760年代半ば、ニューヨークの北部では土地暴動で混乱し、ニュージャージーの一部でも暴動が発生します。さらにひどい混乱はノースカロライナとサウスカロライナの奥地で起こり、辺境の人々は、自分たちは課税の対象であるが代表されていないと感じながら、議会の保護がないままほっとかれます。1771年にノースカロライナのアラマンス・クリーク(Alamance Creek)で起こった投石による暴動は、レギュレーターの反乱(Regulator Insurrection)として知られ、その終結後、首謀者は反逆罪とされて処刑されます。都市部ではこうした深刻な混乱はありませんでしたが、経済的機会や明確な地位の不平等に対する激しい社会的緊張と憤りが見られるようになります。
ニューヨークの地方政治は、王室と繋がるデランシー家(DeLanceys)と、そのライバルであるリビングストン家(Livingstons)の二大勢力間の激しい対立によって引き裂かれます。イギリスとの関係を巡る政争は、これらの派閥の国内での地位に影響を与え、やがてデランシー家を衰退させていきます。もう一つの現象は、バプテストを筆頭とする反対宗教派の急速な台頭です。彼らは政治的な主張はしないのですが、その説教のスタイルは、宗教的な反対だけでなく社会的な反対の強い信仰を示唆する内容となりました。
こうした争いや騒動にこれといった整合性はありませんでしたが、植民地社会の指導者の多くは、イギリスに対する抗議であっても、破壊的な立場をとることには慎重でした。抗議活動が革命的な方向に進むと、国内での影響が大きくなることを懸念したからです。これら破壊的な要素を秘めた主権は、決して回復されない可能性があると考えられました。