やがて先住部族とヨーロッパ人双方の対立は避けられなくなります。入植の初期には、彼らは協力することもありました。例えば、プリマス植民地の入植者をスクワント族(Squanto)が援助したり、ヴァジニア州のジョン・ロルフ(John Rolfe)がパウハタン族(Powhatan)の娘ポカホンタス(Pocahontas)と半公式結婚をしたようにです。部族は、新しい環境で生き残るための技術を入植者に教え、入植者からは金属製の道具、ヨーロッパの布地、そして特に銃器を紹介されそれらをすぐに採用していきます。
諸部族は、ヨーロッパ人の2つの利点である共通の書き言葉の利用や近代的な交換システムに対応すること慣れていなかったので、植民地の役人による諸部族からの土地の購入は、しばしば軽薄な土地の収奪になりがちでした。アメリカ先住部族と公平に接するよう特に努力したウィリアム・ペン(William Penn)とロジャー・ウィリアムス(Roger Williams)は、稀な例外的人物でした。
先住部族の関与が植民地主義者に与えた影響は、特にカナダをめぐるイギリスとフランス間の争いで顕著でした。フランスは毛皮を五大湖周辺に定住するヒューロン族(Huron)に依存していましたが、ニューヨーク西部とオンタリオ南部に拠点を置くイロコイ族(Iroquois)連合はワイアンドット族(Wyandot)を制圧し、サスケハノック族(Susquehannocks)やデラウェア族といったヒューロン族の同盟者をペンシルベニア州へと追いやることに成功します。この行為により、毛皮貿易の一部がフランスのモントリオールとケベック市からイギリスの支配するオルバニー(Albany) とニューヨークに流失し、イギリスはイロコイに借りを作ることになります。
ヨーロッパと諸部族の同盟は、ルイジアナでフランスの影響を受けたチョクトー族(Choctaws)が、フロリダでスペインの支援を受けたアパラチア族(Apalachees)とジョージアでイギリスの支援を受けたチェロキー族(Cherokees)と戦う方法にも影響を及ぼします。
フランス・インディアン戦争(French and Indian War)は、植民地の人々の軍事的経験と自己の存在の自覚を強化しただけでなく、部族長であるレッド・ジャケット(Red Jacket)やジョセフ・ブラント(Joseph Brant)など、2、3カ国語を操り、ヨーロッパの競争相手との間で交渉できる指導者を輩出することになります。しかし、クライマックスのイギリスとフランス間の闘争は、諸部族にとって災いの始まりでありました。
イギリスが着実に軍事的成功を収め、カナダからフランスを追放すると、諸部族はもはや、ロンドンとパリのどちらの王を支持しても、西方への入植を抑制するという外交カードを使うことができなくなります。このことを知った部族の中には、これ以上の侵攻に対して団結して抵抗しようと考える者も出てきます。1763年、オタワの酋長ポンティアック(Pontiac)が起こした反乱(Pontiac Rebellion)がその例です。しかし、後にヨーロッパ、そしてアメリカの権力に対して先住部族が協力して挑戦したように、これだけで終わりではありませんでした。