フランスは、アメリカにおけるイギリス植民地の人口において、15対1で優っていて、フランス人は彼ら自身を保全するために十分な備えをしていました。彼らはイギリスよりもアメリカに大きな軍事組織を持っていて、その軍隊はよりよく訓練されました。彼らは先住民族との間で軍事同盟を結ぶことに成功していました。
最初の戦の遭遇はフランスが始めました。ジョージ・ワシントン(George Washington)のネセシティ砦(Fort Necessity)で、優勢なフランス軍に降伏し、モノンガヒラ川(Monongahela River)でのエドワード・ブラドック将軍(Gen. Edward Braddock)の全滅、オスウェゴ(Oswego)とウィリアム・ヘンリー砦(Fort William Henry)でのフランスの勝利は、イギリスにとって戦争が短期間で失敗したかのように見えました。しかし、こうした敗北があったにせよ、イギリス軍はアメリカへ兵員と物資の供給を増やすことができました。 1758年までに、軍隊の規模は最終的に満足できる水準に達し、イギリスはより大きな戦略を実行し始めることになります。
イギリス軍は、セントローレンス(St. Lawrence)の支配権を獲得するための陸海軍と、タイコンデロガ砦(Fort Ticonderoga)を狙った大規模な陸軍を派遣してシャンプレーン湖(Lake Champlain)のフランス軍を排除する計画を持っていました。ただ、フランス軍に対するタイコンデロガ砦での最初の遠征は惨敗でした。ジェームズ・アバクロンビー将軍(
)は、軍隊が首尾良く配置される前に、15,000人のイギリス軍と植民地軍を率いてフランス軍に対して攻撃したのです。セントローレンスの鍵であるルイバーグ(Louisburg)へのイギリス軍の急襲は成功します。 1758年7月、ジェフリー・アマースト卿(Lord Jeffrey Amherst) は海軍の攻撃を主導し、彼の兵隊は小さな舟艇で海岸に上陸し海岸堡を確立し、ルイバーグの砦を占領しました。イギリスは土地を開拓し農業を行う農業植民であったのに対し、フランスの北米植民地では先住民との毛皮交易が当初の目的でした。フランス人の支配は、交易路となる河川の「線」や、交易所、宣教師の基地、軍事要塞など「点」が中心でした。農地を広げ面的支配を意図するイギリス人はフランス人を圧倒していきました。