チェサピーク社会とカロライナ社会の西部地域には、独自の特徴がありました。統治の伝統は少なく、土地と富の蓄積はそれほど顕著ではなく、社会的階層制はそれほど堅固ではありませんでした。一部の地域では、東部における規制や統治機構に対抗し、それが紛争につながります。ノースカロライナ州とサウスカロライナ州の両方で、東部の支配階級のエリートによる無反応な姿勢に対して、武装した争いが噴出しました。しかし、18世紀の中盤になると多くの人々が富と社会的名声を蓄積し、ノースカロライナ州とサウスカロライナ州は東部の州と同様に発展していきます。
ニューイングランドの社会はより多様であり、統治機構は南部の機構に比べて寡頭的ではありませんでした。ニューイングランドでは、タウンミーティング(town meetings) といった市民参加の行政が、郡(county)裁判所の狭い基盤を超えて、州政府への関わりを拡大するのに役立ちました。州議会の議員を選出したタウンミーティングは、ほぼすべての自由な成人男性に開かれていました。それにもかかわらず、比較的少数の男性グループがニューイングランドの州政府を支配しました。南部と同様に、高い職業的地位と社会的名声のある男性は、それぞれの植民地の指導的地位に深くつながっていました。ニューイングランドでは、商人、弁護士、そして少ないながら聖職者が社会的および政治的エリートの大部分を占めていました。
中部植民地における社会的および統治的な仕組みは、他のどの地域よりも多様でした。ニューヨークにおいて地主(manor)や大地主が持っていた広範な統治の仕組みは、多くの場合、非常に封建的な制度となっていました。大きな邸宅の入居者は、しばしば邸宅の大土地所有者からの影響を逃れることが不可能であることを理解していきます。司法行政、代表者の選挙、税金の徴収は、しばしば邸宅内で行われました。結果として、大土地所有者は、途方もないほどの経済的および政治的権限を行使しました。
1766年に起きた大きな反乱は、大地主に向けられた短期間での爆発であり、中産階級の間で広まった不満の兆候でした。対照的に、ペンシルベニア州の統治機構は、アメリカの他のどの植民地よりも開放的かつ双方向的でした。一院制の立法府は、強力な知事評議会によって科せられた制約から解放され、ペンシルベニアが王立と所有者からの影響から比較的独立していきました。この事実は、初期のクエーカー教徒の入植者の寛容で比較的平等主義的な特徴、その後の多数のヨーロッパ人の移民と相まって、ペンシルベニアの社会的および統治的機構を他のどの植民地よりも民主的なものとしましたが、同時に派閥も形成することになりました。