ユダヤ人と日本人 その7 ユダヤ人の遍歴 その2

前回に続き、「ユダヤ人の遍歴その2」である。中世に追放されたユダヤ人の多くは東方へと移民した。ポーランド(Poland)、オーストリア(Austria)、ボヘミア(Bohemia)、モラヴィア(Morabia)などの地域へ拡散したことを記した。特にユダヤ人が多かったのがポーランドであった。

Wikipediaによれば、1025年から500年間続いたポーランド王国(Kingdom of Poland)は立憲君主制の先駆けといわれる。民族や宗教の多様性が顕著で、宗教的な寛容さが実現していたといわれる。その一例が「ユダヤ人の自由に関する一般憲章」発布である。これによってユダヤ人の安全と個人の自由を保障し、ユダヤ人らは安心して自分たちの信仰を守り、商売を行い旅行することができたといわれる。

その間、イスラム教徒(Muslim)によって「聖地」が冒涜されているとか、巡礼者への冷たい対応に対する救援を依頼するようになる。そこで異教徒より聖地を取り返すことを目的として二世紀の間、8回の十字軍(Crusade)が派遣される。キリストの流した血は、彼を殺したユダヤ人の血を流すことで仇討ちするということにも発展するのである。だが、イスラム教徒の攻撃により壊滅し逃走を余儀なくされたり、奴隷になったり死亡する者も大勢いた。異端への布教とか討伐という十字軍が失敗するのである。ユダヤ民族の殉教の時代を迎えるのである。

アーサ・ケストラー(Arther Koestler)の「ユダヤ人とは誰か」によれば、西ヨーロッパのユダヤ人が定住したのは、今のフランスとドイツにまたがるラインラント地域(Reinland)ある。だが第一次十字軍においては、ラインラントで多数のユダヤ人が十字軍運動に熱狂したドイツ人などにより虐殺されたと云われる。さらに1290年にはイングランドから、1394年にはフランスからユダヤ人が追放された。15世紀になるとドイツ諸邦でも、神聖ローマ帝国やドイツ騎士団、大司教などによってユダヤ人は迫害や虐殺されたりした。

ユダヤ人はヨーロッパとイスラム世界とを結ぶ交易商人だったが、ヨーロッパ・イスラム間の直接交易が主流になったこと、自分たちへの迫害により長距離の旅が危険になったことから、定住商人へ、さらにはキリスト教徒が禁止されていた金融業(銀行業)へと進出していく。キリスト教社会では、金融業は「身を汚さずには近寄ることもできない」卑しい職業=金貸しと見なされていたのである。やがて「ユダヤ人高利貸」というステロタイプな呼び方はこうして定着するようになる。
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