ジェイムズタウンにおける企業連合に属するヴァジニア会社の経営者は、もともと富裕な貿易商人や武器商人であり、さらに新しい投資先を探すのに熱心でした。1607年の設立認可によるヴァジニア・コロニー(Virginia Colony) における最初に2年間は、経営が困難な状態でした。それというのは入植者の協力が得られにくかったことと慢性的な資本の投資や供給不足が原因でした。
1607年の設立認可は、ヴァジニア会社の投資者を増やしていきます。取締役の努力によって短期的な投資が増えることになります。しかし、大抵の入植者は、その土地の先住民族が自分たちの生活を保障してくれるものと期待しました。先住民族はそれを頑なに拒否したために、会社経営はなんらの利益を生むことなく投資家も衰退していきます。
イギリス国王は1612年に新たな認可状を発布し、ヴァジニア会社が投資を促すための宝くじの発行を認めます。破産しかかった会社を救うためです。同年、ジョン・ロルフ(John Rolfe)は始めて高い品質の穀物栽培にとりかかり、それがタバコの生産につながっていきます。トマス・デール卿(Sir Thomas Dale)がやってきて、1611年に初代の総督となります。ヴァジニアは次第に統制がとれて、地域が安定していきます。当然、高い代償を払ってのことでした。デールは「権威、道徳、規律」(Laws Divine, Morall, and Martial)という法を定め、入植者の生活に規律を求めます。ヴァジニアの住民は子どもも女性も軍の階級が与えられ、それにそった義務を果たさなければならないというものです。こうしたルールに反した者には重い罰則が科せられました。首とかかとを縛られること、むち打ち、そして犯罪人を乗せる船での労役でした。入植者はこうした法律に逆らうことは会社への中傷とみなされ、そうした行為は死を宣告されるようなものでした。
デールの布告は、ヴァジニアにおける植民地政策に規律をもたらしますが、新しい入植者を増やすことには役立ちませんでした。ヴァジニアに自費でやってくる入植者を惹き付けるために会社は20ヘクタールの入植地を与えるとします。自費で来れない者には7年後には20ヘクタールの土地を与えることとします。同時に、ヴァジニアの新しい総督となったジョージ・ヤードリー卿(Sir George Yeardley)は、1619年に代表者を選ぶ選挙を施行すると発表し、その議会組織は、ほとんどヴァジニア会社の取締役会に似たようなものでしたが、後にその組織は権限を拡張し、植民地の自治のための原動力になっていきます。
こうした改革の導入にもかかわらず、1619年から1624年は、ヴァジニア会社の未来に致命的な年となります。伝染病、先住民族との絶え間ない戦闘、および内部の論争により、植民地で重い試練が襲います。1624年に、王室は結局、ヴァジニア会社による許認可権を撤回し、植民地を王室のコントロールの下のおきます。この政策は長期的には重要な結果をもたらすのですが、王室のヴァジニアへの介入は、植民地に急速な変容をもたらすことはありませんでした。植民地の経済と政治はそれまでどおり続きはします。1624年の王室の権限の将来が不確かではありましたが、議会は、依然として機能はしていました。1629年までに議会は公式に承認されます。王室は、タバコの生産と輸出を続けるヴァジニア移住者の決定にいやいやながら黙認します。1630年までに、ヴァジニア植民地は大きく発展はしませんでしたが、王室の援助を受けることなく存続することができるようになります。