15世紀になるとウクライナに新しい軍事社会が起こります。トルコ・カザック系のコサック(Cossacks)です。ウクライナの南部草原地帯を開拓してきます。コサックは、主として狩猟や漁業、養蜂などを営みます。コサックは、冒険人とか自由人と称しながらも賦役が課せられていました。彼らは戦士としての誇りから農奴という扱いを受けたくないという信念を持っていました。ザポリージャ(Zaporozhia)という開拓地に逃れてきたコサックは、領主からみれば反逆者のような存在で、領主はコサックに隷従を強いていき、コサックの反感をかっていきます。こうした反目には、領主、代官、地方長官がほとんどローマカトリック教徒であるという宗教的な敵愾心から生まれるものでした。こうして次第に民族の分離運動が起こります。
ローマ・カトリック教会とギリシャ正教会の合同によって、ウクライナ人は三つの宗教集団に分かれます。ラテン語の典礼を行うポーランド人のローマ・カトリック教徒、東方カトリックとよばれる合同派カトリック教徒、そしてギリシャ正教徒です。1578年からポーランド軍に服従するコサックの小常備軍がつくられます。コサックを従属させるために、ポーランドは草原地帯にクダーク(Kudak)要塞を構築します。コサックの将軍ボダン・フメリニッキ(Bohdan Khmelnytsky)は領袖として、数千人にコサック兵を率いてクダーク要塞を破壊し、ポーランド軍を破ります。その間、領主、カトリック僧侶、ユダヤ人の虐殺が行われます。
フメリニッキらは、キーウ、チェルコブフ、ブラック地方の公国側の人々をギリシャ正教徒に帰依させる協定を結びます。これに対して、ポーランド側や地方貴族らも反対します。貴族層はポーランド国境内に自治のウクライナ公国が成立することに反対し、コサックはポーランド人領主が復帰することにも不満でありました。フメリニッキが率いるコサックのラーダ(Rada)と呼ばれる評議会は、シーチ(Sich)に軍事、行政の本拠を置きます。やがてコサックは劣勢に陥るにつれて、評議会は1652年にロマノフ朝(Romanov Dynasty)の二代目アレクセイ一世(Aleksei I)に保護を求めることを決めます。アレクセイ一世はキーウ・ルーシを奪還する好機と捉え、1653年にロシアはフメリニッキの要請を受けてポーランドに宣戦します。ロシア・ポーランド戦争は、スウェーデン人(Swedish)の侵入により複雑化し、1656年に休戦となります。
フメリニッキの死後、イワン・ヴィゴフスキー(Iwan Vygovsky)がコサックの領袖となり、1658年、ポーランド、リトアニア、ウクライナによる連邦国家の結成が調印されます。ウクライナはドニプロ川を境にポーランド・ウクライナとロシア・ウクライナに分割されます。ヴィゴフスキーは、わずか2年間の首長でしたが、彼はウクライナを自立させるために大規模な戦争、新しい条約の締結、モスクワとワルシャワの外交作戦などを遂行していきます。
次ぎにコサックの領袖となったのは、ペトロ・ドロシェーンコ(Petro Doroshenko)です。彼は、ウクライナをオスマン帝国の属国となる構想を抱きます。そして1668年、スルタン(Sultan)のメフメット四世(Mehmed IV)はウクライナを保護下におきます。1672年、オスマン軍はポーランドに進攻し、ドニプロ川右岸のポーランド・ウクライナはオスマン帝国の宗主権下に入ります。ポーランドのヤン三世(Jan III Sobieski)は1683年のオスマン帝国による第二次ウィーン包囲(Vienna Siege)で勝利し、1688年、ポーランド・ウクライナからトルコ人を駆逐して英雄として名を馳せます。