20世紀初頭、イラク(Iraq)とヨルダン(Jordan)両国の国境線を決めてイラク建国の立役者となり、“砂漠の女王”と呼ばれたイギリス人女性ガートルード・ベル(Gertrude Bell) の生涯を描いた映画【Queen of the Desert】です。【アラビアのロレンス】と同様、中東における列強の植民地支配の駆け引きに疑問を抱いて活躍した女性の物語です。
ガートルードはイギリスの富裕な両親の娘です。頭脳明晰だった彼女はロンドンのクイーンズ・カレッジ(Queens College)で進んで教育を受けます。当時、ベル家のような社会階層の女子教育はもっぱら個人的な家庭教師によって担われていました。さらに珍しいことに彼女は17歳でオックスフォード大学(Oxford University)に進んで、近代史を勉強します。
ガートルードは、ロンドンのエリート層が楽しむ社交生活に関心がありません。舞踏会、レセプション、特権的な会合に出席することは嫌いでした。有意義な人生を求めていたガートルードは、テヘラン(Tehran)で外交官をしていた叔父のところへ行くことを決心します。中近東の国に魅了されるだけでなく、ヘンリー・キャドガン(Henry Cadogan)という大使館の書記官と恋に陥ります。彼は知的な読書家であり熱心なスポーツマンで、ガートルードと同じく歴史に興味を持っていました。2人は惹かれあうようになり、ガートルードは求婚を受けます。しかし、両親は結婚相手として認めず、そのロマンスは長続きしません。
ガートルードは、持ち前の好奇心と博識によって中近東の国々の歴史を調べ、著作に専念していきます。アラビアを広範囲に旅し、アラビア語(Arabic)、ペルシャ語(Persian)、フランス語、ドイツ語に堪能になり、イタリア語とオスマン語 (Osmanlıca)を話するすようになります。彼女の知識と築いた人脈により、探検や地図作成を行い、イギリス帝国の政策立案に大きな影響力を持つようになります。アラビアのロレンスといわれたロレンス(Thomas.E.Lawrence)、オスマン帝国領事であったチャールス・ドーティワイリー(Charles Doughty-Wylie)らに出会います。やがて、共に現在のヨルダンやイラクのハーシム朝(Hashim Dynasty)を支援していきます。
彼女は、中東各地を旅して築いた部族の指導者たちとの絆から、独自の視点で中東の将来を考えていきます。そしてイラクにおける近代国家の確立とその運営に役割を果たしていきます。彼女の思想はイギリス政府関係者から高く評価され、絶大な力を発揮していきます。彼女はその後、「国王陛下の政府の代表でアラブの人々が愛情に似たものを覚えた数少ない一人」と評されるようになります。
1921年3月、カイロ(Cairo)でイギリスの植民地大臣チャーチル(Winston Churchill)の主宰により、ガートルード・ベル、コックス(Percy Cox)、そしてロレンスなどの「東洋学者」の選りすぐりのグループを招集してオスマン帝国の分割とイギリスの委任統治、イラクのような新興国家の境界を決定するためのカイロ会議 (Cairo Conference) が行われます。この会議でベル、コックス、ロレンスは第一次大戦中にアラブの反乱の扇動者で、フランスによってダマスカス(Damascus)を追放されていたファイサル(Faysal)をイラク国王とし、その兄のアブドゥッラ(Abdullah) をヨルダン(Jordan) の首長とした新国家の建設を精力的に推進します。