日本にやって来て活躍した外国人 その三十七 アーネスト・フェノロサ

高校の美術の時間では、岡倉天心と並んでアーネスト・フェノロサ(Ernest F. Fenollosa)のことを学びます。彼はマサチューセッツ州(Massachusette)のセイラム(Salem)生まれ、地元の高校を卒業後、ハーバード大学(Harvard University)で哲学、政治経済を学びます。美術が専門ではなかったのですが、ボストン美術館(Museum of Fine Arts, Boston)付属の美術学校で油絵とデッサンを学んだことがあり、美術への関心はあったことが伺われます。

Museum of Fine Arts Boston

フェノロサは、動物学者エドワード・モース(Edward Morse)の紹介で1878年に来日し、東京大学で哲学、政治学、理財学(経済学)などを講じます。フェノロサの講義を受けた者には岡倉天心、嘉納治五郎らがいます。来日後は日本美術に深い関心を寄せ、助手の岡倉天心とともに古寺の美術品を訪ね、天心とともに東京美術学校の設立に尽力します。1888年天心は欧州の視察体験から、国立美術学校の必要性を痛感し、日本初の芸術教育機関、東京美術学校、現在の東京芸術大学を設立し初代校長となります。フェノロサは副校長に就き、美術史を講義します。

Ernest F. Fenollosa

当時の日本では、神仏分離によって神道を押し進める風潮の中で、多年にわたり仏教に虐げられてきたと考えていた神職者や民衆が起こした廃仏毀釈が起こります。それに対して、西洋文化崇拝の時代風潮の中で見捨てられていた日本美術を高く評価し、研究を進め、広く紹介したのがフェノロサです。明治時代における日本の美術研究、美術教育、伝統美術の振興、文化財保護行政などにフェノロサの果たした役割は大きいといえます。

岡倉天心

1890年に、ボストン美術館(Museum of Fine Arts Boston)に日本美術部が新設されフェノロサのもとへ「学芸員になって欲しい」と依頼が届きます。折りしも日本政府との契約が満期終了となり同年、ボストン美術館東洋美術部長に就任し、日本美術の紹介に尽力します。1896年に、2度目の来日で東京高等師範学校教授となる。この年、夫人と共に天台寺門宗の総本山三井寺・法明院を訪ねます。フェノロサは法明院の茶室で寝起きしたといわれます。法明院にはフェノロサの墓があります。