日本にやって来て活躍した外国人 その三十四  エドモンド・モレル

鎖国時代が終わり、明治政府は積極的にアメリカやヨーロッパ諸国に働きかけて専門家を日本に招き、「近代化」を図っていきます。イギリスからは鉄道開発、電信、公共土木事業、建築、海軍制度を学んでいきます。エドモンド・モレル(Edmund Morel)のことを紹介します。

Edmund Morel

モレルはキングス・カレッジ・スクール(Kings College School)およびキングス・カレッジ・ロンドン(Kings College London)において学びます。オーストラリアのメルボルン(Melbourne)において土木技術者として8か月、続いてニュージーランドのウェリントン(Wellington)地方の自治体の主任技師として働くという経歴を有します。

モレルは1866年1月から北ボルネオ(Borneo)において、石炭輸送用の鉄道建設に当たります。その後夫人を連れて横浜港に到着します。1870年4月のことです。日本でイギリス公使を18年にわたり務めていたハリー・パークス(Sir Harry Parkes)の推薦によりモレルは、明治政府から建築師長(技術主任)に任命されます。そして鉄道建設を指導をすることになります。

民部大蔵少輔兼会計官権判事であった伊藤博文に、人材育成の機関作成を趣旨とする意見書を提出します。また民部大蔵大輔の大隈重信と相談の上、日本の鉄道の軌間を1,067 mmの狭軌に定めます。さらに、「森林資源の豊富な日本では木材を使った方が良い」と、当初イギリス製の鉄製の物を使用する予定だった枕木を、国産の木製に変更するなど、日本の実情に即した提案を行います。こうして外貨の節約や国内産業の育成に貢献することになります。後にそうした活躍から「日本の鉄道の恩人」と賛えられていきます。

肺を患っていたモレルは、1871年に休職してインドへの転地療養を願い出ます。政府はモレルの功績に応じて5,000円の療養費を与え出国を許可します。日本の鉄道の開業を目前にして1871年11月、横浜において満30歳で没します。モレルの遺志は、副主任のジョン・ダイアック(John Diack)らに受け継がれます。ダイアックは新橋 – 横浜間の鉄道敷設の測量を指導し、1872年に鉄道は開業します。ダイアックは後の東海道本線である京都 – 大阪 – 神戸間の測量や敷設工事も指導します。我が国の鉄道技術の発展は、イギリス人技術者の働きによるところ大であったのです。