日本にやって来て活躍した外国人 その三十一 バーナード・ベッテルハイム

ベッテルハイム(Bernard J. Bettelheim)は英国国教会より日本に派遣されたキリスト教宣教師兼医師です。沖縄群島にやってきた最初のプロテスタント宣教師でもあります。英国国教会が組織した宣教団体は、「Loochoo Naval Mission」といいます。LoochooとはRyukyu(琉球)を表しています。ベッテルハイムは派遣のリーダーとして1843年から1861年の間、琉球にて活動します。

ベッテルハイムの生い立ちなどに触れます。彼はスロヴァキア(Slovak)首都ブラチスラヴァ(Bratislava)にユダヤ系の子として生まれます。9歳の時にはすでにドイツ語、フランス語、ヘブライ語で詩を書いていたといわれます。ユダヤ教の聖職者ラビ(rabbi)となるべく教育を受けますが、12歳で学校をやめ、ハンガリー国内で学んだ後、最後にイタリアのヴェネト州(Vèneto)のパドヴァ(Padova)で医学を学ます。その後はエジプトとトルコへ渡り、1840年にトルコのスミルナ(Smyrna)でキリスト教に改宗します。そして、イギリスへ渡り英国国教会の牧師から洗礼を受けイギリス国籍を取得します。

1846年4月に香港から琉球王国に到着し、那覇の護国寺を拠点に8年間滞在します。同行していたのは中国人の通訳です。ベッテルハイムの琉球伝道は、難破した英国軍人に暖かく接した琉球人への感謝からだとされています。しかし、彼の琉球王国での宣教活動は困難だったようです。これは琉球を支配していた薩摩藩と江戸幕府のキリシタン禁教政策のためです。

琉球側はベッテルハイムへ退去を要請しますが、布教活動は黙認され比較的自由に行動することができます。その間、医療活動も行います。ハンセン氏病患者にも接したという記録があります。宣教では、一人の洗礼者も育てることができなかったようです

1854年6月にマシュー・ペリーが来琉した時、ベッテルハイムは琉球の言語と文化についての知識からペリーのもとで働きます。そのとき琉米修好条約を締結しました。条約の内容は、アメリカ人の厚遇、必要物資や薪水の供給、難破船員の生命財産の保護、アメリカ人墓地の保護、水先案内人の件などを規定するものでした。ベッテルハイムはそのまま艦隊とともにアメリカに渡ります。アメリカではシカゴやニューヨークにおいて長老派牧師として活躍し、南北戦争(Civil War)では北軍の軍医として活躍するという波乱の生涯をおくります。