日本にやって来て活躍した外国人 その十六  マクシミリアン・コルベ

Encyclopedia Britannicaから引用します。1894年、ポーランド(Poland)のツズンスカ・ボラ(Zdunska Wola)に生まれます。信心深いポーランド家庭で育ったコルベ(Maksymilian Kolbe)は、少年の頃から通う教会内部の柱に常に聖母マリアの姿を見ていたといわれます。そしてイエズス会(Societas Iesu)付属の学校に通います。

Maksymilian Kolbe

1910年、彼は修練院に入ることを許され、翌年の1911年に初誓願をたて、マキシミリアンの名前を与えられます。1912年、彼はクラクフ(Krakow)に送られ、そしてローマへの留学生に選ばれます。ローマで彼は哲学、神学、数学および物理学を学びます。1915年に教皇庁立であるグレゴリアン大学(Pontifical Gregorian University)で哲学の博士号を、そして1919年に教皇庁立聖ボナベントゥラ大学(Pontifical Bonaventura University)で神学の博士号を取得します。

やがて日本の地に宣教師として赴きカトリック信仰の布教を終生の願いとするようになります。当初は中国での布教活動を考えていたコルベ神父ですが、阿片戦争(Opium War)など、政情の不安定さを心配した友人の提案で上海を経て日本に向かうことになります。

1930年4月長崎に上陸したコルベ神父は、翌月には大浦天主堂下の西洋館に聖母の騎士修道院を開き、印刷事業を開始します。カトリック司祭であった早坂久之助司教に『無原罪の聖母の騎士』の出版許可を願います。司教はコルベが哲学博士号を持っていることを知ると、教区の大浦神学校で哲学を教えることを条件に出版を許可します。1931年に「無原罪の聖母の騎士」日本語版を一万部発行し翌年には聖母の騎士修道院を設立します。神学校で教鞭をとりながら聖母の騎士誌の発行と布教活動に専念します。

1938年にポーランドに戻ると、カトリック教会出版部の責任者となります。カトリックのラジオ局も立ち上げます。しかし、1941年にコルベ神父は、ユダヤ人や地下運動を支援したというかどでワルシャワ(Warsaw)で逮捕され、その後アウシュビッツ(Auschwitz)強制収容所に収監されます。囚人の身代わりを申し出て1941年8月に亡くなります。アウシュビッツにおけるコルベ神父の態度は長く言い伝えられています。