日本にやって来て活躍した外国人 その十三 マシュー・ペリー

横須賀は久里浜海岸にペリー(Matthew Perry)提督上陸の碑があります。1852年11月にペリーは、東インド艦隊司令長官に就任し、日本開国へ向けて交渉するようにとの指令を与えられます。合衆国大統領ミラード・フィルモア(Millard Fillmore)の親書を携えてバージニア州(Virginia)ノーフォーク(Norfolk)を出航します。

1853年7月8日(嘉永6年)、浦賀に艦隊は入港します。7月14日、幕府側が指定した久里浜に護衛を引き連れ上陸します。浦賀奉行であった戸田氏栄と海防掛であった井戸弘道に大統領の親書を手渡します。浦賀では具体的な協議は執り行われず開国の要求をします。ペリーは、幕府から翌年まで回答の猶予を求められ、食料など艦隊の事情もあって琉球へ寄港します。

戸田氏栄

1854年2月に、ペリーは旗艦サスケハナ号(Susquehanna)など7隻の軍艦を率いて現在の横浜市の沖に停泊し、早期の条約締結を求めます。サスケハナ号は「黒船」という呼ばれます。木造の船体に塗られた防水・腐食防止用のピッチが黒色だったからです。3月31日に神奈川で全12ヶ条からなる日米和親条約を締結します。下田と函館を開港し、アメリカは食料や燃料などの物資供給を受けることができるなどが定められます。日米和親条約は後に不平等条約と呼ばれるように、アメリカの都合のよい条約内容となっています。

日米和親条約の目的です。アメリカは太平洋航路を開拓し、東アジアとの貿易の拡充を狙っていました。そこで燃料の補給のため、日本の港が必要だったのです。そしてもうひとつの理由として、アメリカが北太平洋で捕鯨をおこなっていたことがあります。産業革命によりアメリカ国内では機械の潤滑油やランプなどに使用するクジラの油が大量に必要だったのです。