キリスト教音楽の旅 その19 日本のキリスト教と音楽 その4 天正遣欧使節のもらたらしたこと

天正遣欧使節は、正使が 13歳の伊東マンショ、13歳の千々石ミゲル、副使が13歳の原マルチノ、そして14歳の中浦ジュリアンです。こうした名前は洗礼名です。セミナリオでの成績が優秀で、音楽にも長けていたことが想像されます。宣教師ヴァリニャーノらに付き添われて1582年2月に長崎を出航します。風向きを考慮してこの時期を選んだものと思われます。旧ポルトガル領であったマカオ、マラッカ、インドのゴア(Goa)を経て、南アフリカ最南端の喜望峰を回り、1584年8月ポルトガルのリスボン(Lisbon)に到着します。帆船による2年以上の船旅は若者には大変辛い経験だったろうと察します。なにせ風任せの航海です。船員の中には病気による死者もでたとあります。

遣欧使節の航路

天正遣欧使節は1584年11月にスペインの首都マドリードでスペイン国王フェリペ2世(Felipe II)に、1585年3月にはローマでローマ教皇グレゴリウス13世(Gregorius XIII)に謁見するという光栄に浴したようです。グレゴリウスはグレゴリウス暦を制定したといわれます。4人は日本の正装でローマ教皇に会見し、ラテン語で大友宗麟ら大名の親書を読み上げたということが宣教師の記録にあります。

ローマ教皇謁見の絵

1587年に秀吉は筑前箱崎にて「伴天連追放令」を出してキリスト教の禁止に転じます。ポルトガル語で「神父」を指す「padre 」から、伴天連とかバテレンが生まれます。秀吉は宣教師の退去と貿易の自由を言い渡します。1590年7月に一行は 長崎に帰港し、翌年3月聚楽第において豊臣秀吉の前でジョスカン・デ・プレ(Josquin Des Prez)の曲を演奏します。彼らが伴天連追放令の解除を願い出るも、やがて一行をはじめ信徒は過酷な運命をたどります。伊東マンショは宣教師となるも若くして病死、千々石ミゲルは棄教、原マルチノはマカオに追放、中浦ジュリアンは殉教します。

グレゴリウス13世