Last Updated on 2025年3月13日 by 成田滋
戦国時代に暗躍する一匹狼=間諜の生き様を描く小説に「忍者 丹波大介」があります。作者は池波正太郎です。甲斐の武田信玄の家臣となり信玄と勝頼の2代に仕えたのが真田昌幸です。豊臣政権下、信州は上田の合戦で2 度にわたって徳川軍を撃退したことで、徳川家康を大いに恐れさせたことで知られる智将です。
昌幸は関ヶ原の戦いで西軍についたために改易されます。昌幸には信幸、信繁、後の幸村がいます。関ヶ原の戦後処理により、家康は昌幸・信繁父子には上田領没収と死罪を下します。東軍に属した長男の信幸らの嘆願で助命され、二人は高野山への蟄居となります。少し時間を遡らせます。この小説の中で昌幸・信幸父子が碁を打つ場面があります。戦国の武将も大いに碁に親しんだことは知られています。当時上手であった本因坊算砂は、信長、秀吉、家康の3人に指南役として仕えるという政治的手腕も発揮していたといわれます。家康に弓を引こうと目論む豊臣家臣の石田三成と会津若松の上杉兼勝家老の直江兼続が対局しながら、無言の会話をしたともいわれます。上田城にて好々爺となった54 歳の昌幸が本丸の居館にて忍者の丹波大介を迎えます。
「お前、碁をうつのかや?」大介は少年の頃から囲碁を好んでいました。丹波村に亡父と二人暮らしをしていて仕込まれたものですが、囲碁も「忍び」の修行の一つであったといわれます。大介はこの老人が「信玄亡き後、恐るべきは真田昌幸じゃ」と家康を畏怖させている人物だとは、到底思えませんでした。昌幸は大介を一目見て、いたく気に入ってしまい、その日から「相手をせよ」と申しつけます。もともと真田家では、昔から囲碁が盛んだったそうで、大殿の昌幸も、分家の沼田を継いだ長男の信幸も、京に出て行けば本因坊秀策に先の手合いだったようで、家来たちも当然ながら歯が立ちませんでした。
「ほう、ほう、こりゃ、なかなかに、、、」と昌幸は大介の腕前をみえ狂喜します。三番に一番は大介が勝つのです。「おう来たか。これへ、これへ、、、」早くも碁盤を前にして、「あまり待たせるな!」「恐れ入りました」と言いながら、げんなりと大介は碁石をつまみます。何番も何番も付き合いさせられるからです。「大介に逃げられてはかなわぬ、大切にもてなせい」昌幸はわざわざ幸村にそう命じます。そしてまた、碁を打ちながらする大介の話術が昌幸を喜ばせます。昌幸もまた、大将として戦場にて永陣の時は、碁を打って気を養うことを日課としていたようです。
(成田 滋 2020/9/13)