ウィリアム・クラーク大佐

Last Updated on 2025年3月13日 by 成田滋

農学の研究者、ウィリアム・クラーク博士の業績は、札幌農学校、そして北海道大学の発展に寄与されたことが強調されがちです。確かに、化学、植物学、動物学の分野で、札幌農学校の教頭となって活躍しました。彼は1848年にマサチューセッツ州のアマースト大学を卒業し、1852 年にドイツのゲッティンゲン大学で化学の博士号を取得します。その後、アマースト大学で化学の教授を務めます。しかし、我が国では、クラークの経歴は南北戦争にも大きく関わったことはあまり知られていません。彼の戦歴の一端が本稿の主題です。

ウィリアム・クラーク博士

 クラークの学者や教育者としての生活は、南北戦争によって一時中断されます。彼は戦争における北軍の大義を熱心に支持し、アマースト大学で学生の軍事訓練指導に参加し、多くの学生を軍隊に志願させることに成功します。アメリカの大学には、士官を養成する軍事教練プログラム(ROTC)があります。1861 年8 月に、マサチューセッツ第21 志願歩兵連隊マサチューセッツの少佐に任命されます。彼は第21 マサチューセッツ連隊に2 年近く従軍し、最終的には1862 年に中佐、1862 年から1863 年まで大佐としてその連隊を指揮します。歩兵連隊とは、陸軍では最も数が多く、戦力の基幹となる部隊です。

 第21 歩兵連隊は開戦前に、最初の数か月間、メリーランド州アナポリスにあるアメリカ海軍士官学校で駐屯任務を割り当てられます。1862 年1 月に連隊はアンブローズ・バーンサイドという少将が指揮する沿岸師団に配属され、ノースカロライナでの作戦に向けて師団と共に戦線へ向かいます。クラークは1862年 2 月に連隊の指揮を執り、1862 年3 月のニューバーンの戦いで連隊を指揮します。その戦いで、クラークの連隊が南軍の砲台に突撃し、敵の猛火をかいくぐり、連隊を前進させるのです。交戦中に南軍の大砲を捕獲します。これは北軍が捕獲した最初の大砲といわれました。アマースト大学の学長の息子であり、この戦闘で戦死した第 21 マサチューセッツ連隊の副官であるフラザール・スターンズ中尉に弔意を表して、この大砲はバーンサイド将軍からアマースト大学に贈呈されそこに設置されます。

 1862 年7 月にマサチューセッツ第21 連隊が北ヴァジニアに移された後、連隊は最終的にポトマック軍の一部となり、「第二次闘牛場の戦い」、「アンティータムの戦い」、「フレデリックスバーグの戦い」など、南北戦争におけるいくつかの最も大きな戦闘に参加します。連隊は、1862 年9 月の「シャンティリーの戦い」で最悪の犠牲者を出します。森の中で雷雨をついての戦いの混乱の中で、クラークの連隊は散りじりとなり、ヴァジニア州の田園地帯を4日間さまよい、再び軍隊に戻ります。彼が行方不明になっている間、地元アマーストの新聞は「一人の英雄が去った」(Another Hero Gone)という見出しをつけて彼の死亡記事を掲載したほどです。1863 年になるとマサチューセッツ第21 連隊は、規模が極めて小さくなり、クラークは名ばかりの指揮官となっていきます。やがて退役しマサチューセッツに戻り、1867 年にマサチューセッツ農科大学第 3代学長に就任します。

 学長として大学拡張政策を進めるなかで、一年間の休暇(サバティカル)を利用し明治政府の要請で1876 年に札幌農学校の実質的な校長職として赴任します。後に彼は「札幌農学校は、地球の裏側のアマースト大学の発展をモデルとした」と回想しています。さらに、農学校でも学生に規律及び諸活動に厳格かつ高度な基準を設け、士官養成を狙いとしたことが知られています。基督教についても講じ、「イエスを信じる者の誓約」といった共同体活動に多大な影響を与えたことは、つとに知られています。学者や信徒伝道師でありながら、軍人としてのウィリアム・クラークの「我らは信ずる」という矜持に一同窓生として感じるものがあります。(2022 年9 月15 日)
(本稿は、Britannica やWikipedia を参考にしました)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA