Last Updated on 2025年1月7日 by 成田滋
T市のMargy Mutoh氏から教員の「資質」について、ゾクゾクするようなコメントが寄せられました。氏曰く「ところで、「資質」とは本来、持って生まれたもののことであって、個々に異なるもののはずです。「教員の資質」と言うとき、「教員」がsingularで使われているなら○、pluralなら×(日本語としておかしい)です。」
「資質」とか「素質」は天性のものという定義がなされています。岩石に例えれば原石です。資質は、人間の成長に欠かせないものです。そうすると彼女が指摘するように資質は個人にかかわることです。と同時に周りとの作用で資質が輝いていくか、あるいはそのままで埋もれる可能性もあります。資質とは磨くことによって、光沢を増すものです。
資質には、親からの躾けや薫陶、周りからの刺激、その影響をとらえる感受性もあるでしょう。劣等意識や優越意識を感じる受け皿のようなものです。成長するにつれて、おぼろげながらの職業観も芽生えるでしょう。一方自尊心も生まれてきます。学校での教師との出会いも貴重な体験となります。こうした体験が試行錯誤へと導きます。私の小学校の作文に「将来プロ野球の選手になりたい」と書いたことを覚えています。ほどなくして、自分は選手になれないということを自覚してきます。
成長の過程で、将来どんなことをしたいのか、そのためにはどういう方法があるのかを考えるようになります。ある種の使命感のようなものも付随して意識するようになります。こうした小さな体験が積み重なり「経験」となり、自分の課題とか観念が育っていきます。それについての正しい知識、もっといえば自分の経験がその課題や観念の定義を構成していくようです。そうしてようやく、意味のある発言をすることができます。これは私の思索、反省、覚醒といった経験のさせる帰結です。この帰結は、個人的なものであり他の人に押しつけるものではありません。
経験の重みとは、俗に大圏を積んだ人というように解釈することとは違います。経験とはどのようなものかを探る終着のない模索のようなものと理解していただきたいのです。「経験がある」とか、「経験がない」ということの以前に、「その経験は自分にどんな意味を持ったのか」を反芻することが大事ではないでしょうか。資質は経験を生み、経験は資質を磨きます。