Last Updated on 2025年2月28日 by 成田滋
偶然ですが、最近楽しんだ時代小説に、かつて私が 10 年以上住んだ兵庫県の播磨にある「三草」という地名が登場しました。三草は現在の加東市の一部です。播磨には、加東の他に多可、加西、美囊といった地域があります。江戸時代、この地域を領有していたのは、三草藩の譜代大名の丹羽家で三草に陣屋を構えていました。陣屋とは、大名領の藩庁が置かれた屋敷のことです。藩主丹羽家は、常に江戸に在府していたので参勤交代を免れていました。
この時代小説名は、井川香四郎作「近松殺し」の第四話「嫁は花魁」です。主人公は、三草藩主の丹羽長門守氏貞の奥方、お美代です。彼女はかつて朝霧といわれ、見目麗しく妓楼の主の目にとまった吉原の花魁でした。花魁とは、大名や旗本、豪商など特定の上客のみを相手にします。それゆえに品格や教養がなければ、到底馴染みの客に春をひさぐことはできません。この朝霧はたゆまぬ修業に耐え、茶道、生け花、書画、香道、和歌、俳句、琴、三味線から舞踊をこなしていきます。彼女はなにごとにも筋が良く、芸事も教養、所作も他の花魁を寄せ付けない存在でした。この朝霧に最も熱心で、やがて「落籍」させ「身請け」するのが三草藩主の丹羽長門守氏貞です。朝霧の教養は、囲碁や将棋にまで及んだようです。
大名を始め、江戸で指折りの両替商、材木商、茶道や華道の家元などそうそうたる客をもてなすために、囲碁も大事な素養でありました。この秀でたもてなしによって、妓楼や花魁には莫大な馴染み金やご祝儀が入ってきます。大名も藩の財政が傾くほどの大枚をはたいたようです。漢書の外戚伝に「傾城傾国」という故事があります。「君主が絶世の美女の色香にほだされ、国を滅ぼすこと」とあります。男子が色香におぼれて城も国も顧みないほどの美女は「傾城」と呼ばれました。朝霧は持ち前の美貌、所作、教養によって丹羽長門守の正室、お美代の方となります。
囲碁は中国の春秋戦国の時代にはすでに生まれて、漢の時代にはそれなりに広まり唐の時代にはかなり一般に普及していたようです。奈良時代にはすでに囲碁は伝わって、平安時代には貴族や僧侶のたしなみとして盛んに打たれます。室町時代に入ると武家の間でも広まり戦国時代に入ると、戦の模擬として大名に好まれ、信玄・信長・秀吉・幸村・家康などが好んで打ったといわれます。平和な江戸時代になると囲碁は町民などにも広まります。家元が出す有段者の免状は貴重だったようで、関所での身分証明にも使われます。大名やそのお抱えの者を相手に打っている太夫や花魁の棋力は、半端ではなかったようです。正直、なめてかかってきた豪商が「ああ、お前さん、ちっと手加減してくれんかな」といったところ、彼女たちはニコリと笑って「いいや、倍にあげますえ」と返したという逸話もあります。そして「ありがとうござりんした」で馴染み客を満足させたのではないでしょうか。