狂騒時代を振り返って その3 ベトナム戦争

Last Updated on 2025年2月9日 by 成田滋

アメリカはインドシナの共産化を恐れていました。当時、ドミノ理論という言葉はしばしば報道されました。一つの国が共産化すると、将棋倒しのように近隣の国々も共産主義の国なるという現象を指します。アメリカは戦後の冷戦状態を指して、「共産主義国との戦い」、と表現をしていました。朝鮮動乱もそうです。アメリカと中国の戦いが朝鮮戦争でした

ベトナム戦争の報道

ベトナム戦争の過酷さは、多くの写真家や記者の前線からの報道で全世界に伝えられました。朝日新聞の本多勝一は「戦場の村」を書き、は世界各国で翻訳され、ベトナム反戦運動にも大きな影響を与えました。フォトジャーナリストの澤田教一はベトナム戦争を撮影します。銃弾を避けながら必死に川を渡る母子を写しそれに「安全への逃避」という題名をつけて報道しました。

ベトナム戦争の終結

Free to Safety

アメリカは1975年にベトナムから撤退します。そこに至るサイゴンの陥落や民間人やアメリカ人の脱出は大混乱のドラマでした。南北の統一がここに成立します。15年間続いた戦争によってベトナムもアメリカも疲弊し消耗しました。とりわけアメリカへの衝撃は甚大でした。超大国であるはずのアメリカが、小国に敗北した挫折感はいい知れないこととなりました。

映画 「ランボー」

ベトナムでの死者は5万人以上にのぼり、心身ともに傷ついた帰還兵の社会復帰と市民からの蔑視が社会問題化します。帰還兵の社会復帰は容易なものではありませんでした。英雄扱いがありませんでした。その後作られた映画には、そうした帰還兵の苦悩に焦点をあてたものがあります。帰還兵ジョン・ランボーは戦友を訪ねてとある山間の田舎町を訪れます。しかし戦友は化学兵器の後遺症でこの世を去っています。戦友宅をあとにして街へ入ったランボーに保安官が声を掛ける。そして冷たくあしらわれ、街を追われるのです。ランボーの怒りが爆発します。

黒人と白人の対立、若者と大人の対立、徴兵される者と徴兵を逃れる者との対立がありました。このような混沌とした中、1969年7月に月面に最初に人を送り込むことに成功します。この光景は実況中継で全世界に放映されます。ベトナム戦争で混乱するアメリカ国民を湧き立たせる出来事であったのはいうまでもありません。

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