Last Updated on 2025年2月9日 by 成田滋
1960年代は景気が良かったです。売り手市場でしたから同窓生はみな大企業に就職しました。当時、北海道で一番人気のあった会社は北海道拓殖銀行です。どの中小企業もこの銀行にひれ伏すような有様です。銀行は最も安定し、成長を代表する企業であることを誰も疑わなかったのです。今、この銀行は存在しません。バブル経済の時に急拡大した不動産担保融資が焦げついて倒産しました。この銀行は地元の小さな銀行が引き継ぎました。企業の狂騒時代がきたのです。
インドシナの歴史
ベトナム戦争には伏線があります。1946年に戻ります。日本の敗北によってホー・チ・ミンらは共産主義政権を樹立しようとします。ところがインドシナを長く植民地支配を続けていたフランス政府は、ベトナム民主共和国という共産主義政権を認めません。やがてフランスは、1948年に「ベトナム臨時中央政府」を発足させ、バオ・ダイ帝を据えます。こうしてフランスとホー・チ・ミンとの間でインドシナ戦争が勃発します。ところがバオ・ダイはベトナム人民の支持を得ることに失敗します。
大国同士の代理戦争
毛沢東が率いる中華人民共和国は、ベトナム民主共和国を正統政権と認めて、武器援助・資金援助を開始します。他方、アメリカも軍事援助をフランスとベトナムに申し入れ、ここに大国同士の戦い、代理戦争がインドシナで始まります。この半島でまたしても長い泥沼の混乱が始まります。まずはフランスが大きな犠牲を払うことになるのです。中華人民共和国の支援を受けたは、民主共和国のべトミン軍は有利な戦いを進めます。大量の武器や食料をアメリカから受けるフランスは苦しい戦いを強いられます。そしてディエンビエンフーというところで共産側に包囲され降伏します。しばらくして第一次インドシナ戦争が終わります。
ジュネーヴ協定
インドシナ和平会談において和平協定である「ジュネーヴ協定」できますこれにより第一次インドシナ戦争の終結とフランス軍のインドシナ半島からの完全撤退、ならびにベトナム民主共和国の独立が承認されることになります。ジュネーヴ協定では、半島の北緯17度を南北の軍事境界線とし1956年7月に南北全土で自由選挙を行い統一を図ることが決定されます。
ジュネーヴ協定成立の翌年の1955年に南ベトナムで実施された大統領選挙でアメリカの支援を受けた反共産主義者のゴ・ディン・ジエムが大統領に当選し、ベトナム共和国が成立します。この政府は通称南ベトナムといわれます。ゴ・ディン・ジエムはジュネーヴ協定に基づく南北統一総選挙を拒否し、ここに南北の対立がはっきりします。
ベトナム戦争と反戦運動
国内の景気は順調、しかし、インドシナ半島ではベトナム戦争が続いていました。昭和40年の北爆に始まり、サイゴンの陥落まで10年間戦いが続きました。アメリカは「ベトナム全土の共産化を抑止する」という大義名分で闘いました。沖縄はその後方基地としての役割を果たします。アメリカは消耗する10年間となりました。
ベトナム反戦運動の中心は学生でした。カリフォルニア大学バークレイ校はその拠点となります。「バークレイ」というのは、世界中の研究者や大学院生が学問をしたくなるような超有名校なのです。ハーヴァード大学、エール大学、マサチューセッツ工科大学などもそうです。学生の反戦運動が盛んになるにつれ、詩や歌によって戦争の反対を訴えるようになりました。We Shall Overcome, Where Have All the Flowers Gone.などの歌です。ジョーン・バエズとかPPMといった歌手が現れます。
ベトナム戦争の頃、新宿西口広場は、若者が集まり反戦歌を歌い戦争反対を叫んでいました。丁度安保改定の時期と重なり、既存の体制への疑問からサブカルチャーが生まれた頃です。カウンターカルチャーとも呼ばれました。