Last Updated on 2025年2月9日 by 成田滋
自分の70年を振り返りますと、疾風怒濤の人生だったような印象です。樺太で生まれ、北海道で育ち、北海道大学に入り、東京で学び直し、沖縄で働き、アメリカで再度勉強し、神奈川で苦労し、兵庫でようやく落ち着き、そしてまた東京で四苦八苦する有様です。その間子どもは大きくなり、全員アメリカで生活しています。孫も5人となり、わたしはすっかり好々爺となりました。そろそろ子どもの側で生活したくなりました。円高ドル安が続けば、海外での生活のほうがいいに決まっているのです。暫く私の記憶にある狂騒曲のようなことを綴ることにします。
はじめに
自分の70年を振り返りますと、疾風怒濤の人生だったような印象です。樺太で生まれ、北海道で育ち、北海道大学に入り、東京で学び直し、沖縄で働き、アメリカで再度勉強し、神奈川で苦労し、兵庫でようやく落ち着き、そしてまた東京で四苦八苦する有様です。その間子どもは大きくなり、全員アメリカで生活しています。孫も5人となり、わたしはすっかり好々爺となりました。そろそろ子どもの側で生活したくなりました。円高ドル安が続けば、海外での生活のほうがいいに決まっているのです。暫く私の記憶にある狂騒曲のようなことを綴ることにします。
受験と就職
私の高校時代は、いわゆる受験戦争といわれる狂騒時代のはしりの頃です。知識のため込みという学力をいかにつけるかによって受験を乗りきるか、という競争です。幸いにして大学生となりました。大学に入ると家庭教師を掛け持つですが、相手はもっぱら小学生と中学生です。そうした生徒はいくらでもいました。都会では塾の教師や家庭教師は最も人気のあるアルバイトでした。
ところで受験で思い起こすのは韓国の熱気溢れるアカデミーと呼ばれる塾の繁盛です。夜11時ともなると、塾や予備校の前の路上には沢山のバスが並び、生徒を送り届ける光景がどの都市でもみられます。全国一斉修能試験を目指して、保護者も若者も一心不乱に学ぶ姿は異様です。日本も1960年代になるとこれに似た世相が見られました。
安保闘争
1960年代は学歴がものをいう時代ですから、いわゆる「一流大学」への志向が強かったのです。しかし、1960年代後半になると事態が少しずつ変わります。日本とアメリカの間の安全保障条約の改定を巡る「安保闘争」が一流大学志向の若者の態度を変えるきっかけとなります。東大、京大などがストライキの拠点となり、大学の建物はまるで戦の砦のようになります。ベトナム戦争が最も激しい時期でもありました。反戦と厭戦の空気が色濃い1970年代です。
大学紛争の余韻
大学紛争の余韻が残るキャンパスに入ると、皆「ヤレヤレ」という気分が充満し、ろくに勉強はしません。高校の延長のような授業が結構あって、「こりゃなんだ、、、」という気分です。ある者は麻雀屋へ、ある者は全く不登校に、ある者は学生運動に身を投じ、ほんの一握りの者がガリ勉でした。私は中途半端。ドイツ語や哲学などの目新しいものは、きちんと出席しました。「ドッペル(単位を落とす)」とか「メッチェン(女の子)」などのドイツ語がしきりと会話にでたものです。
「カネオクレ」
月々の小遣いは2,000円。時折「オヤジバンザイ、カネオクレ」という電報を打つ体たらくです。仕方なくせっせと家庭教師をやりました。そんな時に、中学、高校でやっていた歌をうたいたくなり、男声合唱団にはいりました。この頃、「メンタル・ハーモニー」なる言葉が部員の中に流行しました。歌うことの技術はともかく、「和をもって貴しとすべし」という精神訓話のような言葉です。授業が終わるとすぐ部室に行っては、先輩から青臭くも、大分うわずったわけのわからない訓話を聞いたものです。
就職活動
大学4年になると「そろそろ就職をどうしようか、、」という気分になりました。学部の掲示板に求人票が貼られます。大手の企業ばかりを学生は狙っていました。自分は「日商岩井」という商社に応募しました。昭和40年代の日本経済は,岩戸景気以降の体質を受継いで大型景気により過度の悲観などが全く吹き飛ばされるような有様でした。この時代の日本経済の成長は、輸出の伸びなど貿易収支が非常に好調なときです。狂騒といえば、チッソによる鉱毒型公害が大きくなってきたことです。
今、日商岩井という会社の看板はありません。大学からの紹介でこの会社に応募すると、東京にて面接試験があるとのことで上京しました。履歴書には「英語が得意」と書いたので、それを試されることになりました。当時、ソ連のミコヤン第一副首相が来日していたので、その英文記事を読み、訳すようにとの質問がきました。発音はともかく、記事の意味はすぐわかりました。先輩に面接のことを話すと、「俺は一度の上京で3社を受けに行って、3社から交通費をもらった」と豪語していました。就職活動は全く無しという「狂騒」の時代でした。
就職内定
商社からすぐ就職内定の返事がきました。四年生の6月初旬です。所属は航空機部門といわれました。会社は他の商社との間で熾烈な受注合戦をしていました。日商岩井はボーイング社だったと思います。グラマン社とかロッキード社が航空機を製造していました。札幌の支店に内定の挨拶にいくと暖かく迎えてくれたのを覚えています。売り手市場だったせいか、いろいろと就職までの期間になにをしたらよいかを教えてくれました。そして貿易英語の教本などが本社から送られてきました。世の中は経済成長の真っ只中でした。
日商岩井の就職を断り、札幌ユースセンターでの青少年活動をすることを選びました。親はいたくがっかりしたと後で知りました。それから立教大学の大学院で学び直し、沖縄での幼児教育に携わることになりました。そこで障害のある子どもを知りました。学び直すことに迫られ、国際トータリークラブから奨学金をいただきウィスコンシン大学で障害児教育を学びました。その頃の家計が一番しんどい期間でした。家内も懸命に働きましたが、乳がんを患い以降30年余りがんと闘いました。