Last Updated on 2025年3月2日 by 成田滋
私はアメリカ施政権下の1971年から本土復帰後の1977年まで沖縄の那覇で生活しました。小雨が降る1972年5月15日の本土復帰の時を経験しました。その日は奇しくも4歳の長男の誕生日でした。琉球独立と本土復帰の狭間に置かれた沖縄の人々の葛藤や苦悩のようなものを感じていました。それと同時に琉球の多様で豊かな文化芸術にも接する至福の時も経験しました。 琉球方言や祖先信仰、詩的文学、舞踊や三線などの音楽、焼物、紅型や芭蕉布などの染織物などに琉球独自の香りを感じたものです。沖縄時代を振り返ると、いろいろな思い出が走馬燈のようによぎります。
現在の沖縄県は、かつては琉球王朝と呼ばれる一つの独立国でした。1429年に中山王の尚巴志が琉球を統一し、琉球王国を創設します。琉球王国は、明と清の使節を受け入れながら、上手に独立を保っていました。やがて清が衰退し、薩摩や明治政府の影響を受けます。
琉球と囲碁の歴史です。1682年に薩摩藩の支配下にあった琉球から幕府へ使節団が送られます。「朝貢」といわれる儀礼的な外交行事で、貢物の献上とそれに対する将軍からの下賜という形態をとります。この使節団の中に当時、琉球第一の名手とされる親雲上濱比賀(ベーチンハマヒカ)が加わっていました。濱比賀は四世本因坊道策の名声を知り、薩摩藩の第2代藩主の島津光久を通じて手合を申し込みます。道策はこれを受けて芝にあった島津藩邸にて対局することになります。この対戦は史上初の国際公式試合といわれています。
道策は第4代征夷大将軍徳川家綱の治世下で活躍し、1667年に御城碁で初出仕します。御城碁とは、江戸時代に年に一度、将軍の御前で対局し競う行事です。この御前試合では囲碁棋士たちには俸禄が与えられ、棋士たちは日々研鑽に努めたようです。道策は後世「棋聖」と呼ばれ 全局の調和を重視した合理的な打ち方を広めたことなどから、近代囲碁の祖と呼ばれる名人でした。
ハマヒカとの対局では、道策は四子の手合割を指定し14目勝ちを収めます。ハマヒカは再度対局を求め、今度はハマヒカが2目勝となったと記録されています。その後道策はハマヒカに三段の力を認める免状を与えます。島津公より対局のお礼として、白銀70枚、巻物20巻、泡盛2壷を、ハマヒカからは白銀10枚を贈られたといわれます。道策は、石の効率と全局的な視野で、力だけのハマヒカを翻弄したようです。
ハマヒカの道策挑戦の20年後、1710年に琉球国中山王の貢使随員、屋良里之子(ヤラサトノシ)は、後に本因坊となる道知と向三子で対戦します。サトノシは琉球では天才少年といわれていたようです。対局では中押しで道知はサトノシを退けます。このときサトノシは15歳、道知は20歳でした。後に道知はサトノシに免状を発行します。1702年に道知は御城碁に初出仕し林玄悦門を7目勝で破ります。
当時琉球の碁は、接近戦が主体で布石の理論が未発達だったといわれます。道知の頃は、最先端の定石研究が進み、中国や琉球の碁を圧倒していたようです。たとえば、「両ガカリ定石はまだまだ未開拓だったようで、日本と琉球を代表する打ち手にしては、現代からみると、いくぶんたどたどしい」と大竹英雄九段が「基本置碁事典」という著作でコメントしています。
なお、中山王国は、現在の那覇市・浦添市を中心に主に沖縄県中頭郡に存在していた王国のことです。中山王国は、1429年に琉球統一以降は琉球王国となります。琉球王朝時代に、明や清の使節の接待とか、代々の王への碁の指南で活躍したのがハマヒカとサトノシらです。彼らは江戸への朝貢の一行に加わり、文化使節としての役割も果たしたようです。朝貢に似た儀式に「冊封」があります。冊封は、国の国王を親に当たる国、例えば明国が琉球王を任命する儀式の名前で、中国から琉球への冊封使の一行は学者や絵師等で500名位だったといわれます。ハマヒカやサトノシの活躍は、今日の沖縄囲碁の発展に継承されています。 (2023年3月8日)