狂騒時代を振り返って その4 ニクソンが大統領に

Last Updated on 2025年2月9日 by 成田滋

公民権運動やベトナム反戦運動が暴徒化、過激化し違法性を強めることに対して、「法と秩序の回復」を訴えたのが共和党のリチャード・ニクソンです。ベトナム戦争からの「名誉ある撤退」を主張します。対立候補は、ヒューバート・ハンフリー。泥沼化していた戦争からの早期撤退を公約し反戦的なリベラル層からの大きな支持も獲得して、1969年1月に第37代の大統領となります。国内では10年毎の日米安保条約の延長を巡って、大学紛争も高まります。

ウォーターゲート事件

ニクソンはベトナム戦争の終結の他にも、中華人民共和国との関係改善を図ります。さらに、アポロ計画や戦争によって悪化した財政を立て直すため、ドルと金の兌換を停止するなど、外交、経済面においていくつかの新機軸を打ち出します。そこにウォーターゲート事件が起こります。民主党本部のホテルで共和党職員が盗聴器を仕掛ける事件です。これによりニクソンは辞任に追い込まれ、大統領の権威の失墜や政治への不信が始まります。

In front of the Watergate

冷戦後の大国同士の角逐も続きます。アメリカと中国の歴史的な対話はその緊張を和らげるのに役立ちます。ニクソンが華やかな外交の勝利を得、次期の大統領に選ばれることも確実視されていたにもかかわらず、1972年から彼は一体なぜウォーターゲート事件を指揮したのか。当時いろいろな説が流れたものです。

アメリカと中国の外交

今でもニクソンの評価は二分されています。有名なキッシンジャーの隠密外交によってソ連や中国に対する外交上の努力は成功を収めます。特に1972年2月の歴史的な中国訪問を成し遂げ、外交関係を開いて両国の経済や文化の交流が活発となります。その年の11月の大統領選挙におけるニクソンの勝利は確実であるということがしばしば報道されました。私は、ニクソンが北京空港で周恩来首相と握手する光景をじっと見つめておりました。

二つのニクソンショック

ニクソンが大統領の時に世界を驚かす二つの事件、というかショックがありました。すでに述べたニクソンの1972年2月の中国との関係を正常化させる北京訪問などの一連の外交のことです。第2のショックは1971年発表されたドル紙幣と金との兌換(だっかん)停止を宣言したことです。このショックとは、アメリカ合衆国政府が、それまでの固定比率によるドル紙幣と金の兌換を停止するという世界経済の枠組みの大幅な変化をもたらすことになったことです。

ドル紙幣と金との兌換の停止の背景です。アメリカはベトナム戦争などの影響で財政赤字が拡大していました。大幅な輸入の超過で貿易赤字が大きく膨らんでいました。さらにドルがアメリカから大量に流出していき、ドル本位制による金とドルとの交換に応じられない状況に陥りつつあったといわれます。こうなりますと、ドルに対する信任も大きく揺らいでいきます。そこでニクソンはドル相場の切り下げを狙ったドル防衛策としてドルと金の交換を停止する措置に踏み切ります。

バブル景気

1980年代後半から1990年代初期まで土地を中心とする資産価格の上昇と好景気、それに伴って起こった経済社会現象のことです。バブル(泡)のように大きく膨ら現象をバブル景気といわれます。土地や建物が投資の対象となります。その例がニューヨークの中心にあるロックフェラー・センターを大手企業が購入したことです。大きな反響を起こします。日本企業による国外不動産買い漁りが非難されたのです。

いろいろな要因が重なって日本では、投機熱が急速に加速していきます。土地神話は全国に広がります。「土地は必ず値上がりする」という風評が蔓延します。土地転がしが地価の高騰に拍車をかけます。銀行は土地を担保に貸し付けを拡大します。各地にリゾート観光地ができます。不動産価格が高騰するにつれて、資産保有者は含みの利益がもたらされるという心理が働き、財布のひもをいっそう緩めていきます。これが消費を刺激していったのです。狂騒の真っ只中に人々は右往左往しました。

同時多発テロ事件

アメリカでは同時多発テロ事件9.11を迎え、さまざまな追悼行事がひらかれています。あれから24年目にあたります。航空機を使った前代未聞のテロ事件です。多くに人がこれに巻き込まれ、全世界に衝撃を与えました。9.11はベトナム戦争と無関係ではありません。アメリカは世界の超大国として君臨してきました。時に覇権を主張し政治と経済において世界を牽引してきました。それがベトナム戦争の姿であり、9.11の後のアフガニスタン紛争、イラク戦争につながっていきます。

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