民権論と金権論

はじめに

歴史は繰り返すといわれますが、最近「民権論」ということが取りざたされています。なぜかといいます、今般のキックバックという政治資金パーティの裏金を舞台とする金権政治が明るみに出て、批判されているからです。「金権論」という言葉が使われるのも頷ける世相です。金権論に対するアンチテーゼとして「民権論」が再登場するのも合点がいきます。

民権論

ブリタニカ国際大百科事典によりますと「民権論」とは、主に明治前半を通し提唱された民衆の権利擁護思想とあります。特に自由主義思想と結びつくことによって、自由民権論という明確な政治思想が広まったといわれます。この政治思想は、18世紀にフランスにおいて起こった啓蒙思想が下敷きにあると思われます。こうした思想の代表は、モンテスキュー(Charles-Louis de Montesquieu)の三権分立論などの国家論、ヴォルテール(François-MarieVoltaire)の宗教的寛容論、ルソー(Jean-Jacques Rousseau)の社会契約説などの啓蒙思想です。ちなみに「啓蒙」とは、「蒙(知識不足)をひらく、無知のものに知識を与えることで、無知を有知にするという意味があります。無知とは、封建社会の中で教会的な世界観の中に閉じこめられていた人々の有様を指します。

ロベール・ド・モンテスキュー

民権論と啓蒙思想

プロイセン(Prussia)の哲学者であったイマニュエル・カント(Immanuel Kant)は『啓蒙とは何か』という著作の中で次のように定義しています。「啓蒙とは人間が自分自身で責めを負った未成年状態から抜け出ることである。未成年状態とは、他人の指導なしに自分の悟性を用いることのできない状態である。」カントが強調する啓蒙とは、知識人や専門家たちが上から民衆に教え諭す働きではなく、いわば民衆が自ら自分自身を鼓舞し決断する働きそのものが大事であるというのです。

民権論は、天賦人権論ともいわれます。1879年植木枝盛の「民権自由論」や,新聞・雑誌,地域における学習や討論会などを通じて広く国民の間に浸透した時期がありました。国会開設運動や憲法制定など、民権論を具体的に実現するために行われた自由民権運動の一つです。自由民権運動の支柱となったのは、啓蒙思想で謳われる天賦人権論であり,国民の政治的・市民的権利の確立を説く政治理論でもあります。憲法により政治権力は制限されるべきだという「立憲主義」の思想のことです。しかし、国家権力の統制によって自由民権運動は下火となり定着しませんでした。

エマヌエル・カント

金権政治や寡頭政治

金権政治はプルトクラシー(plutocracy)と呼ばれ、金の力で政治権力を掌握することいわれます。ギリシア語の訳語で,ploutos (富) と kratia (力) を合せたものであって,富豪政治または富裕階級の支配ともいわれます。哲学者アリストテレス(Aristotle)はこれを「貴族制」(aristocracy)とか「寡頭政治」(Oligarchy–オルガルキ)と呼びました。支配層のメンバーが裕福であったり、その富を通じて権力を行使する寡頭政治は、金権政治としても知られています。

金権政治が極限まで行くと、金銭獲得のために利権を前提とした賄賂、選挙において巨額資金の投入によって、有権者の票や議会の採決における議席を金で買収することも行われます。さらに職業政治家が私利私欲に走り、政策そのものまで利益団体からの金銭授受によって左右されるのです。金銭を駆使することによって当選を目指すことは金権選挙と呼ばれます。卑近な例としては、後述する自民党の裏金を巡る企業献金や寄附による政治の腐敗があります。

我が国の選挙では、一票の格差はよく話題となりますが、投票価値の公平性という観点から非常に大きな問題になっているのが参院選挙区の一票の格差です。そして全国区制については、全国各地を遊説する上に加えてポスターやビラに多額の選挙資金が必要となっていることです。そのため「全国区」ならぬ「銭酷区」と呼ばれることもあります。また「8億円で当選し7億円で落ちる」と言われていたことから、「八当七落」と、もじられました。政治資金パーティ券が常態化しているのも、選挙資金や私利私欲を目指す金権政治の典型といえるでしょう。

イタリアの思想家、ロベルト・ミヒェルス(Robert Michels)が寡頭制の鉄則(Iron law of oligarchy)という理論を提唱しています。巨大化する政党が平等や民主主義を実現すると声高に主張しながら政府の政策に妥協し、組織の維持・存続にばかりに気をとられている実態を目の当たりにして提唱したものです。組織の成員は、複雑化し同類化した組織・集団を管理する技能を持たないため、少数の指導者たちに運営を任せ、依存するようになるというのです。このことが少数の指導者たちが強大な権限を確保させ、一般成員の支配を可能とするというのです。これは今の自民党派閥幹部の姿そのものです。ミヒェルスは、すべての政治体制は寡頭制に変貌するというのです。

寡頭政治の一例を今回の政治資金パーティに関わる裏金から見ていきましょう。裏金ももらっていた議員は、「派閥の幹部からかつて政治資金収支報告書に記載しなくてもよいという指示があった。『大丈夫かな』とは思ったが、長年やっているのなら適法なのかと推測せざるを得ず、指示に従った」といっています。少数の指導者といわれた幹部たちが強大な権限を保持し、成員である所属議員を牛耳っていたのです。

裏金と選挙

今日、日本では金権政治はもっと広い意味で使われています。すなわち,選挙に勝つために,あるいは党首の座の獲得や政権の維持のために莫大な資金を使うことを意味しています。また、ときには巨大企業が経済力によって有利な政策決定をかちとることも金権政治といわれます。大きな経済団体では大企業が会員となり、企業や団体の意見を取りまとめて、政府や行政に働きかけています。「日本経済の発展と国民生活の向上」のための政策の提言をしその実行を働きかけるのです。金権政治が明確に見え隠れする存在といえます。これが利権に基づく政治行為をいわなくてなんでしょうか。

裏金というのはどんな形にも使える自由な金なので、それを人件費に使おうと、銀座のクラブでの飲食に使おうと、選挙に使おうと、自由にその財布から出せるのです。裏金がなければ政治活動ができないといわれたのです。この資金の流れは、マネーロンダリングといわれる資金洗浄の疑いもあります。つまり、裏金を資金の出所をわからなくするために、架空または他人名義の金融機関口座などを利用して、転々と送金を繰り返したりして、捜査機関等による収益の発見や検挙等を逃れようとする行為です。金権政治の一つの典型といえます。

おわりに

民主主義の選挙には金銭が大きく関わっています。政治には金がかかるといわれますが、その理由の大きくは、選挙と議員を支える秘書をどれだけ多く雇っていくかにかかっているといわれます。それゆえ民主主義が生まれた頃から、「民主主義は金権政治なのか?」と言う議論は尽きません。賄賂の温床とも言われる政治献金とか選挙資金パーティをどのように規制するかは、国会で審議されていますが、いまだ解決策は見えていません。賄賂や裏金に無感覚になっている職業政治家の理性や矜持を厳しく問いただすべきです。こうした職業政治家は、カントがいう自分の悟性を用いることに麻痺する未成年状態といえましょう。

(投稿日時 2024年7月27日)  成田 滋
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