これから【話の泉ー笑い】と題して、笑いの極意を探求していきます。【話の泉】とは、1946年12月から1964年3月まで約18年間NHKラジオ第一で放送された番組です。サトウ・ハチローや徳川夢声、堀内敬三らの解答者が、自らの持っている雑学の知識を披瀝し、うんちくを傾けて笑いを誘うトーク番組でした。私は1950年代の後半からこの放送をよくきいていたものです。
「笑い」とは、人間関係の中で最も頻繁に現れる感情表現の一つです。対人関係では、怒り、不満、威圧、からかい、批判,風刺などで緊張が生まれます。それでもなお関係を改善する役割を果たすのが笑いといわれます。吹っ切れた爽快さもあります。関係を損なうかわりに、笑いは関係を修復してくれるのですから、不思議なものです。反面、本人が本当におかしくてそのまま笑ってよい場合もあります。居合わせる人々への配慮から、抑えた笑いもあります。このような場面での振る舞いは、対人関係における文化的現象といえます。私たちはいつの間にか、対人関係から笑いというスキルを習得していきます。
時、所、場合において適切な笑いがあり、成人も老人も、年令により、また男、女らしさの笑いもあります。社会的地位や職業によっても笑いの型があります。笑いは必ずしも意識的に生まれるというよりは、むしろ共感による同一化によって学習されたものといえそうです。
イギリスの哲学者、トマス・ホッブズ(Thomas Hobbes)は、人間は未来の自己保存について予見できるので、つねに自己保存のために他者より優位に立とうとする存在だと主張します。そして笑いとは他人の弱点、あるいは以前の自分自身の弱点に対して、自分の中に不意に優越感を覚えたときに生じる突然の勝利、それが笑いだというのです。精神分析学者のジークムント・フロイド(Sigmund Freud)は、「ジョークとその無意識に対する影響」という著作の中で、制約されていた衝動が突然満たされたときに生じる心的状態が笑いだと書いています。
ホッブスがいう笑いの定義の背後には、彼が生きた17世紀ヨーロッパい社会があります。身分制度の社会で階級的なルール、エチケットが支配する宮廷やサロン、社交界では、そこで笑いものになることは、命取りになりかねなませんでした。つまり笑いには社会的制裁としての役割もありました。滑稽は不名誉よりも人の名誉を損なうものでした。
それでも笑いは、やがて社会的な地位を築いていきます。社会的制裁としての役割に限らず、笑いは有効な批評の機能も備えていきます。ヨーロッパの笑い話や阿呆文学には、しばしばおかしみや滑稽を通して教会のドグマや身分制社会のびずみ、人間性そのものに鋭い疑問を投げかけています。笑いは中世的なモラルや処世の秘訣を教えるための楽しい手段でした。他方、笑いは性的なことを含め、世の中のさまざまなタブーに挑戦する機会を与えてきたのも事実です。