古典落語の傑作の一つに「芝浜」がある。名人で三代目桂三木助が演じた屈指の人情噺といわれる。この話は、魚の行商を生業とする酒好きな勝五郎とそのお上さんの物語である。
舞台は今のJR田町駅から浜松町駅のあたり。江戸時代は砂浜が続いていたといわれる。江戸前といわれた魚が水揚げされて雑魚場と呼ばれていた。勝五郎は、この雑魚場に朝早く仕入れに出掛け、暇つぶしをしているうちに大金の入った財布を拾うことからこの落語は展開する。
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ある朝、お上さんにせっつかれて、グズグズしながら魚の買い出しにいく。それまで勝五郎は半月も休んでいたのである。出かけて浜辺で煙草を吸っていると、ひもがついた革の財布が浮いているのをみつける。拾ってみると小判が入っている。
驚いて家に戻り、お上さんに訳を話す。財布と開くと八十二両という大金である。「これでぜい沢ができる、いい着物を買って、温泉でも行こう」とお上さんを誘う。あげくは、仲間を引っ込み「目出度い、目出度い」とドンチャン騒ぎをする。その夜はぐでんぐえんに酔っぱらって眠りこける。
翌朝、お上さんにたたき起こされる。
「さあ、さあ、魚の仕入れに行っておくれ」
「なに言っとるんだ、八十二両あるんじゃないか、」
「なに寝ぼけたことをいってるの、どこにもそんなお金なんかありゃしないよ、なにか夢でも見たんじゃないの?さあ、さあ仕事にいっておくれ」
「確かお前に八十二両預けたじゃないか、、」
「酔っぱらっているからそんなお金の夢をみるのよ」
「おかしいな、確かにお金を拾ったんだが、、、」
「、、、ん、夢か。子供のときからやけにはっきりした夢をみることがあったな、、」
「酒を飲んだのは本当で、財布を拾ったのは夢だったのか、、、ああ情けない。」
こんな会話を交わし、それから勝五郎はプッツリと酒を断ち、元の腕の立つ仲買人となる。それから三年目の暮れのこと。湯屋から戻った勝五郎にお上さんは、打ち明けるのである。
「実は、この財布に見覚えがない?」
「??????」
「これはお前さんが三年前に芝の浜で拾ったという財布なんだけど。」
「あれは夢じゃなかったんか?」
「あたいは、お前さんに嘘をついたの」
「もし、その時この小判を使い込むようなことになれば、お上にいろいろと訊かれ、天下の小判を届けなかった罪で牢屋にでもいれられたろうに」
「あんたが酔っぱらって眠っているとき、大家に相談し奉行所に届けた」
「三年後、落とし主が見つからないのでこの財布はこのとおり帰ってきたんだよ、嘘偽りをいったのは悪かった、どうかあたいを打つなりぶつなりしてしておくれ」
「ああ、そうだったのか、、。お前をぶったりしたら、この腕が曲がってしまう。俺も馬鹿だったなあ、、」
「赦してくれるのかい、、ありがとう」
「静かな大晦日だね、お前さん、三年間酒を一滴も呑まなかったね」
「今夜くらい一杯やったらどう?」
「そうだな、もうらおうか、、ああ、いい匂いだ、口からお出迎えといくか」
「、、、、ん、やっぱり酒はやめておこう。また夢になるといけね!」
自堕落な亭主を更正させる女房。「文句なしに素晴らしいお上さんだ」という立場と、「わざわざ嘘をついて立ち直らせるのなんて、鼻につく女房だ、」という声もある。だがこの人情噺はとてもよくできていると感じる。夫婦愛と人情の機微が噺家から伝わる。それは、庶民のつつましい生活が長屋、酒、夢、女房、行商などに展開されている。皆、その日その日に生きることで精一杯だが、偽りや権威と向き合いながら、懸命にそして誠実に生きる姿が共感を呼ぶ。