学校の風景

▽Margy Mutoh氏
海外、少なくともアメリカには、4歳で学校(kindergarten)に入る子がいたり、学年途中で上の学年の単元へ進む子がいたり、習熟度などによって特別な支援を受けることが、ごく普通に一般に認知されています。ずいぶん昔からその態勢や思想はあり、社会的認知を得てきたわけです。ついでに言えば、その長い時間の中で試行錯誤が繰り返され、改善やさらなる試行がなされてもきました。

LD(読字や書字の困難)や発達障害についても、広く一般に認識されているために、少なくとも「そういう人がいる」ことは知られていると感じます。そのことによって本人が差別や偏見や侮蔑を受けないか、ということはまた別の問題です。

日本には、欧米がこぞって(?)インクルーシブへ、ノーマライゼーションへと社会の形を転換させようと努めていた時代に、あえて(健常/障害の)分別化を維持して、もしくは、進めてきた経緯があります。現在の日本社会の形は、そのように意図されて「作られて来た」というのが事実であり、決して「日本人ってそんなふう」だから、ではないことに多くの人が気づいて欲しいと思います。

いま、日本政府の教育を司る場所にいる人たちの中にも、気づきを持った人たちが少しずつ増えているのを感じます。私学でもいいから単位制の小学校をつくること、それが日本の行政も市民も含めて、受け入れられるのはまだまだ先なのかもしれませんが、いまの教育制度が文字通りの「礎」として固定化してしまわないうちに、どこかを軋ませるアクションを起こしたいとは、いつも思っています。

小学校の過程を単位制という前提で俯瞰してみるには、どこから手をつければいいでしょうか。手元にある教科書の単元をバラしてみたりしていますが、1学年の1教科だけでも膨大な作業で、自分の余暇時間でそこから先へ進むのは難しく、頓挫したままです。専門家や有志の助けが必要だと感じます。

▽成田 滋
かつて、長男がマディソン市の小学校でサッカーをやっていたときです。試合後、一緒に応援していたチームメートの母親が息子を来年はもう一度4年生をやらせる予定だ、といいました。勉強が遅れているというのが理由です。学校は、習熟度が徹底していたので子どもはしばしば教室が代わります。取り出し(pull-out)ということをやるのです。取り出し教室担当の補助教師もいます。

わたしたちの感覚では、4年生が3年生と一緒に勉強するのは、自尊心が傷つくのではないかと心配します。さっきの母親は、学習についていけないで進級することのほうが息子にはもっと大変なことだと理解しているのです。

日本では、義務教育では習熟しているかどうかにかかわらず、ところてんのように押し出し進級させ、そして卒業させます。ですから、高校生となっても小学校の5,6年の学力しかないことがしばしばあるのです。

学年制というのは、一年という時間を単位として学ぶ事柄と量を決めた一つの体系です。便宜的なもの、便利な仕組みとはいえるでしょう。学びに苦戦する子どもや、スイスイと学べる子どもにはこのような仕組みは、ふさわしいといえません。学年制が固定化しているので飛び級もないのです。塾が繁盛するのは、学年制のお陰なのです。単位制にすることによって、自分の能力に合った量の勉強をすることになります。(2014年12月23日)

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