ご挨拶と自己紹介

八王子市に住む成田滋といいます。サイト http://ceser.hyogo-u.ac.jp/naritas

私は、幸いというか偶然にも幼児教育を沖縄で経験し、神奈川県では障がいのある子どもを教え、兵庫県では中学の生徒を、東京では不登校になった生徒を教えてきました。そこには、子ども自身の他に悩める保護者がいつもいました。教師の養成という仕事もさせてもらいながら、教えてもらうことが多かった毎日でした。定年退職してから、これまでの生き様を記録するためにブログを書いています。そして、いろいろな相談事にものらせていただいております。本当は相談したいことは山ほどある私なのですが、、、おこがましいことです。

大分遡ります。7年前に長男夫婦が息子二人を連れて大阪の豊中市にやってきました。近くの小学校に入れたのですが、上の子はなかなかなじめず、登校前に泣き出すようでした。日本語ができないこともあったようです。それにもまして、30人の生徒と同じことをやる授業だったので、フラストレーションがたまったようです。担任は習熟にあわせて課題を出すといった配慮をしませんでした。下の息子は幼稚園で、問題を起こしました。パンチをしたといって幼稚園から電話で注意があったようです。言葉が通じなく、いやなことをされたので手が出たと言っていました。screenshot_75

長男の嫁はボストン近郊にあるチエルシーというスパニッシュの生徒が大半の小学校で低学年生を長く教えていました。助手と二人で午前中はスペイン語で、午後は英語で授業を担当していました。彼女のやり方は、教室内で習熟にそって生徒をグルーピングし、それにあった課題をやらせるというものでした。

そんなわけで、彼女は旦那と私に豊中の教師のやり方に不満をぶつけてきました。一斉授業に対しての疑問です。一斉授業というのは、教師にとっては一番楽なやりかた。あまり工夫をしなくていい授業、それが公立学校の伝統です。習熟度学習に対して、子どもの差別につながるとか、自尊心が傷つくなどなど都合のよい解釈をして、授業の進め方で創意工夫をしないのです。「特別扱いしない」というわけです。

「特別ではない」は、「足し算はもうわかってるから引き算をやりたい」「課題が早く終わったから本を読んでいたい」といったシーンだったようです。「みんなが同じ進度」を守っているのに、一人だけ先へ行く、別のことをするのは許されない、みんなが揃うのを待て、という軍隊行進のようです。

学校の「みんな違ってみんないい」は、「みな同じ」の大前提に「ちょっと待ってください」と手を挙げたくなる気分のことです。全員が鍵盤ハーモニカを使う中で「でもぼくはヴァイオリンがいい」はダメなんですか?というような。ヴァイオリンはオーケストラで演奏するのに、鍵盤ハーモニカは息が続かなくて苦手という子の音楽の評価は「2」だった、というように。学校ではヴァイオリンやピアノの技能、漫画絵の技能は評価されません。

公立学校では、仮に教師自身が「午前中はスペイン語、午後は英語で」授業できる能力があっても、また「生徒をグルーピングし、それにあった課題をやらせたい」という思いがあっても、その教師の担任学級だけがそれをやることは叶いません。また、そもそもそれが「できる、やれる、やりたい」という発想が教師の側にないのも問題です。

なぜでしょうか。教師自身がそのような学校教育を受けていないからです。教師から「指導要領もこのやり方だから教師になってからもこのやり方でしか教えてこなかった。だから他の方法は思いつかない。」といった具合なのです。そんなことですから、教師を非難することはできません。すでに教師自身が「日本の学校教育がつくった人間」の見本となっているとしか思われません。

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