無関心や傍観の帰結 その一 マルティン・ニーメラー

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ドイツの福音主義(Evangelical) 神学者で元海軍軍人、古プロイセンルター派の合同福音主義教会(united Evangelical Church) にマルティン・ニーメラー(Martin Niemöller)という牧師がいました。彼は反ナチス運動家として知られ、『ナチスが共産主義者を攻撃したとき』(Als die Nazis die Kommunisten holten)に記した詩が知られています。それを解説いたします。

Ds. Martin Niemöller

 元東大教授で政治学者であった丸山眞男は、「現代における人間と政治」という自身の論文の中で、ニーメラーが記した詩を次のように訳しています。

  • ナチが共産主義者を襲つたとき、自分はやや不安になつた。けれども結局自分は共産主義者でなかつたので何もしなかつた。
  • それからナチは社会主義者を攻撃した。自分の不安はやや増大した。けれども自分は依然として社会主義者ではなかつた。そこでやはり何もしなかつた。
  • それから学校が、新聞が、ユダヤ人が、というふうに次々と攻撃の手が加わり、そのたびに自分の不安は増したが、なおも何事も行わなかつた。
  • さてそれからナチは教会を攻撃した。そうして自分はまさに教会の人間であつた。そこで自分は何事かをした。しかしそのときにはすでに手遅れであつた。

 ニーメラーはこのように告白し、ナチスの迫害が「共産主義者→社会主義者→労働組合員→ユダヤ人→私」と続いて始まったと述懐します。ドイツ共産党は1933年2月から3月にかけて弾圧・解体され、社会民主党員の多くがほぼ同時期に強制収容所に収容されます。労働組合は同年5月に解体されていきます。それでも1924年以降、ニーメラーは ナチス党に投票し、1933年のヒトラー内閣成立も歓迎します。

 1933年4月にナチスドイツは職業官吏再建法(de:Gesetz zur Wiederherstellung des Berufsbeamtentums)を発布し、その第3条で「アーリア系でない官吏は退官させることができる」と謳います。ドイツ国民をアーリア人種の一民族として賛美し、他方でユダヤ人や黒人、インドを発祥の地とする少数民族のロマ族、いわゆるジプシー(Gypsy)を「非アーリア人」として貶めることになります。これが「アーリア条項」(Aryan Clause)」と呼ばれるものです。ユダヤ人の迫害、ホロコースト(Holocaust)が始まったのは1933年といわれます。

ニーメラーの牧師館

 やがてニーメラーは告白教会(confession church)の創立者の一人となり、ドイツにおける福音主義教会のナチス化に強く反対するようになります。そしてニーメラーの発言や礼拝説教は次第に野党的なものになります。さらに教会外に対しても反ナチス運動を開始します。教会内には、ナチス支持勢力であったドイツ・キリスト者との対立が生じていたのです。ナチス政権は、ドイツ・キリスト者信仰運動を利用して,その宗教政策を推進しようとします。これに対してプロテスタント教会内に抵抗運動が起こり、1934年5月ニーメラーらの指導により「牧師緊急同盟」が結成されます。これが「ドイツ教会闘争」と呼ばれた運動です。そのために1937年に逮捕され禁固7か月という判決が下されます。保釈後、秘密警察ゲシュタポ(Gestapo) によって再度拘束され、ザクセンハウゼン強制収容所(Sachsenhausen concentration camp) に収監されていきます。

 最終的には、ニーメラーは告白教会内においてラディカルな路線を選ぶのですが、ユダヤ人が収容され始めた時期や、カトリック教会への攻撃が本格化した時期を体感できなかったと述懐しています。それが、「自分は共産主義者でも社会主義者でもユダヤ人でもなかった。それ故何も行動しなかった。」と告白しているのです。

 このニーメラーの告白は、もし私たちが社会的な課題に注視し関心を持たないならば、いつの間にか正義や自由は危険な状態になるというのです。今日の政治、経済、社会に横たわる問題に積極的に向き合い、関わっていくことの重要性を伝えています。

【なによりも文化民族にとってふさわしからぬことは、抵抗することもなく、無責任にして盲目的衝動に駆り立てられた専制の徒に統治を委ねることである。現状はまさに、誠実なドイツ人はみな自らの政府を恥じているのではないか?】  (白薔薇は散らず)より引用

参考書:丸山眞男『増補版 現代政治の思想と行動』未來社
    丸山眞男『日本の思想』 岩波新書
    インゲ・ショル 『白薔薇は散らず』 白水社
  

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ハンナ・アーレントの人間の条件

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はじめに

いくつかの政治思想史の著作、例えば「現代政治の思想と状況」という東京大学法学部教授であった丸山眞男の著作を読むと、我が国の政治学や政治思想史には、依然としてマルクス(Karl Marx)主義の影響が強く、今日までマルクス主義が及ぼした思想の展開はきわめて大きいことがわかります。ですがアーレント(Hannah Arendt)の「人間の条件」を読みますと、マルクス主義に対する痛烈な批判が展開されていることがわかります。今日の高度経済成長の社会には、機械に代わられた単純労働の価値が下がり、手仕事や余暇活動といった新たな生活様式が登場しました。効率とか能率によって人生の価値を高めようとする風潮が生まれました。マルクス以後は労働を不当に尊重し、社会問題の解決が人生の目的であるかのような妄想が続いてきました。アーレントはこうした時代の趨勢には対して問題を提起します。

Karl Marx

現代では、労働が仕事や活動に対して圧倒的な優位を保っているとし、労働の優位の政治的表現が社会主義であり、その最も選れた理論家がマルクスでありました。アーレントはこの労働の優位性が現代社会の最大の危機があるとし、マルクスの理論と対決するのです。そして、労働の優位の世界の矛盾と限界を明らかにしていきます。彼女が労働優位の社会として批判の対象としたのは、社会主義社会だけではありません。自由主義社会もまた労働優位と経済重視の社会であり、その点では社会主義社会と全く同じだと主張します。「人間の条件」においてアーレントは自由主義社会と社会主義社会双方を含む現代社会全体を根底的に批判したのです。

Hannah Arendt

労働観

マルクスは言います。「労働と生殖は、繁殖力をもつ同一の生命過程の二つの様式である。人間の活動力のなかで、終わりがなく、生命そのものに従って自動的に進む活動力は労働だけである。」「労働は生命のリズムと密接に結びついている」。現在社会では、機械のリズムは、生命の自然のリズムを著しく拡大し、それを強めるであろう「労働」とは生命維持のためになされる労苦に満ちた無限の営み(activity)となり、それは西欧政治思想の伝統において長らく忌避と軽蔑の対象とされてきました。ところが近代以降には「労働」の地位が急上昇し、むしろ労働こそが人間にとって本質的な営みであると見なされるようになりました。

労働は「自然によって押しつけられた永遠の必要」であり、人間の活動力の中で最も人間的で生産的である一方、マルクスによれば、労働者階級を解放することではなく、むしろ、人間を労働から解放することを課題にしています。つまり、労働が止揚されるときにのみ、「自由の王国」が「必然の王国」に取って代わるというのです。これが彼の革命の思想です。

アーレントは、西欧政治思想の伝統から継承された「労働と政治からの二重の解放」というユートピアを読みとり、このユートピアを強制的に実現しようとする試みが、全体主義支配という否定的に描かれたディストピア(dystopia) をもたらすものであると主張します。このような全体主義への絶えざる危機意識こそがアーレント思想の核心であり、そこに彼女の批判精神が現れていると思われます。

世界の中の日本の状況

時代は下り、20世紀の世界情勢を概観的に見渡してみます。1994年以来、すでに社会主義はソ連と東欧において決定的な後退を経過します。しかし、自由主義もまた全面的に勝利したとはいえない状況にあります。アメリカを始めとする自由主義社会も貧富の格差といった矛盾を抱え、日本を含む多くの自由主義諸国はいまだに明るい展望を持ち得ていません。日本の国内政治状況を振り返ってみます。田中角栄首相の金脈批判からロッキード事件がありました。これらは政界を大きく揺さぶる事件でした。そして今回のパーティ券にともなう裏金事件です。それにも関わらず、自由民主党の揺るぎないような一党優位体制は依然として続いています。

55年体制とは、自由民主党と日本社会党との二党を基軸とする体制です。しかし、その体制は崩壊し、本格的な多党化時代が到来し、保守と革新という伝統的な対立も消滅しています。こうした中にあっって現状の打破のための議論が起こってはいますが、選挙制度とか政治資金規正などの技術論に終始し、現代の政治が直面している危機の本質に目を向けることはありません。アーレントの「人間の条件」という著作は、現代社会を根底的に批判することを通じて現代政治とはなにか、その問題点とはなにかを鋭く抉り出していることです。

政治は利害の調整、特に経済的利害の調整に関わるものとされています。政策の研究が終始され、その内容はほとんどが経済問題とされます。そこに関わるのは職業政治家で、普通の市民が政治に参加する活動はいかにして容易になるかが問われています。しかし、こうした話題は世間はあまり関心がありません。精々選挙をとおして示すだけです。翻ってアーレントは、政治参加を保障し、拡大するという課題は政治の中心おかねばならないと主張し、なによりも市民の政治参加が重大であるかを強調しています。

おわりに

オートメーションに代表される現代の機械生産は、大量消費社会を実現しました。しかし、生命そのものに従って自動的に進む労働には、本来終点がないのですから、消費社会はますます膨張せざるをえないでしょう。この過程に横たわる危険な信号の一つは、経済全体がかなり消費経済になっているということです。物が市場に現れた途端に、今度をそれを急いで貪り食い、投げ捨ててしまわなければならない、いわゆる投げ捨て文化が批判されています。こうした大量消費社会が直面する環境汚染や資源枯渇の問題もまた、労働優位の社会の当然の帰結にほかならないのです。こうした問題を根本的に解決するためには、労働の優位を覆させなければならないというのがアーレントの主張です。

参考資料
 ・現代政治の思想と状況 丸山眞男著 未来社 1962年 
 ・日本政治思想史研究 丸山眞男著 東京大学出版会、1952年
 ・丸山眞男集(全16巻別巻1) 岩波書店 1995~1997年
 ・人間の条件 ハンナ・アーレント著 志水速雄訳 筑摩書房 1999年

(投稿日時 2024年7月30日)