キリシタンと共産党員 その四 強固な連帯感

注目

第二次大戦の終わりに樺太や千島列島の占領、多数の捕虜のシベリヤ抑留と過酷な労働などが、ソビエト共産主義体制の恐ろしさを国民の間に植え付けたのは否めません。海外の共産主義国家、例えば旧ソ連・中国・北朝鮮の印象が国民に今も強固に根付いています。旧ソ連のスターリンによる粛清、現在の中国や北朝鮮における一党独裁や人権問題などが、「共産党=独裁・抑圧」という強力なイメージを作ってしまいました。日本共産党はこれら諸国の党とは一線を画し、自主独立を強調していますが、一般市民から見れば「同じ名称を冠する勢力」として同一視されやすいのが実情です。

サンフランシスコ平和条約による領土の確定

 共産党は非常に規律が厳しく、組織としてのまとまりが強いことで知られています。この強固な連帯感が、外部の人からは「独自の論理で動く集団」とか「何を考えているか分からない」といった一種の不気味さや近寄りがたさを感じさせてしまうことがあります。組織の閉鎖性という側面が国民に忌避感を与えているのです。

他方で、最近では以下のような理由から、一定の支持や評価を得ている側面もあります。草の根の生活相談:として地域の困りごと、介護、税金、労働問題などに対して、非常に親身に相談に乗る党員や地方議員が多いnおも事実です。にも関わらず「過去の過激なイメージ」と「独裁的な海外諸国の印象」が、現在の党の活動以上に大きな壁となって、日本人の心理的な拒絶反応を引き起こしていると言えます。

 日本の「和」の感性からすると、キリスト教は唯一絶対の造物主の存在が厳格すぎると受け止めます。共産党は組織の特有性や共産主義国家の存在が、国民にマイナスの先入観を与えています。一度国民に刻印されたような思考や思想は,長い年月を経ても容易に熔解しないものです。それが「キリシタンは国を売る」という流布であり、「共産党は怖い」という観念なのです。時代を経てもイメージや思想は、しぶとく生き延びるという例証です。

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ウクライナの歴史から学ぶ その十二 レーニンのウクライナ政策

1919年12月、レーニンはウクライナの労働者や農民に公開状を送り、ロシア、ウクライナ両人民の平等性を承認するとともに、両者の同盟条約を提案します。この同盟はロシアへの併合に他なりませんでした。1922年12月の第一回ソ連邦ソビエト大会で、ソビエト社会主義共和国であるロシア、白ロシア(今のベラルーシ)、ウクライナ、ザカフカースの間の連邦結成案が可決され、1923年に憲法を発表し、ここにソビエト連邦を構成することになります。これによりウクライナ・ソビエト社会主義共和国が誕生します。この頃、戦時の共産主義から転換し市場経済などを容認し生産力向上を目指したネップ(NEP)と呼ばれる経済政策が施行されます。

Vladimir Lenin

1920年代から1930年代にかけて、ウクライナの党や政府公式路線としてウクライナ化が採用されます。シュムスキー(Oleksii Shumsky)ら党の指導者により,学校教育のウクライナ化,党や政府へのウクライナ人の登用,ウクライナ語出版物の増大などがはかられ,多くの詩人や作家が輩出し,ウクライナ科学アカデミーを中心にウクライナ史などの研究も精力的に行われます。ウクライナの文化生活は一種のルネサンスを迎えます。

Lenin and Stalin

ウクライナではウクライナ化が推進され、1923年の言語法ではウクライナ語をロシア語の上位におくことを宣言します。多くのウクライナ人亡命者は、ウクライナ化運動を推進するために帰国を始めます。しかし,1930年代になるとウクライナ化政策は180度の転換を示します。1921年に成立していたウクライナ独立正教会も解散に追い込まれます。その罪状は民族主義というものでした。1928年、スターリンはネップを放棄するとともにウクライナ化政策を停止します。ロシア語を第二公用語ともします。その後10年間、ウクライナ化を指導した政治家、知識人、文化人は民族主義者とか反逆者の汚名を着せられ逮捕され流刑となったり粛清されて、ロシア化の時代が再開します。1934年、ウクライナの首都はハリキウからキーウへ移されます。

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